日本アンデパンダン展—その原点と現地点

北野 輝

 以下の小論は日本美術会の民主的運動体としての変化を大まかにたどったものであり、創立時を含む会の特色を大局的見地からとらえてくれている永井潔『あの頃のこと、今のこと』(日本美術会、2008 年)を主な手がかりとして綴られている。本文の展開では、会創立時の多元的結集という原点を確認し、現地点における「中核規定を持たない多元主義的連帯」において、戦争法反対の自主的・自発的な市民運動などにより、美術運動(文化運動)と市民運動(政治運動)のちがいを超えた共通性があらわにされたことを指摘するものとなっている。
(1)日本美術会の出発——多元的な動きと発想の結集
 1946 年4 月21 日、日本美術会は創立総会をもって出発するが、それに至るまでには民主的美術団体へと向かうさまざまな動きや発想と議論があった。この間の動向については、「[45 年末には]戦後早々に芽ぶいた民主的新美術団体への多元的な動きが、一つに結集されはじめた」「もともと多元的発想の集まりであったから、会の性格についてはかなり議論が紛糾した」(日本美術会『日本アンデパンダン展の25 年・歴史と作品』1972)と回想されている。この中で、特に「多元的な発想」と「多元的な動き」と述べられている点に注目したい。日本美術会は、もともとさまざまな美術家とグループの多元的な発想と動きを、一つに結集することから出発したのである。会の性格については、創作方法の一致を求めるもの、美術界の機構改革だけを目標とするもの、経済上の相互扶助組合を求めるもの、諸流派の協議体を目指すもの、等々さまざまな発想があった。結集した美術家たちも、プロレタリア美術系、反官展在野系、抽象美術系、シュールリアリズム系、リアリズム系、等々とさまざまであった。そのようなさまざまな美術家たちやグループが、「今こそ、党派流派を超えて大結集し、真しに、活発に創作活動に立ち向かわなければならない。このことは、民主的な文化日本建設の一環として、一つの力になるだろう」(日本美術会「創立宣言」1946 年4 月)との意気に燃えて会は発足した。当時の綱領には「民主的美術文化を創造し普及する」とも明記されている。ここにさまざまな思想・信条・表現方法を持った美術家たちの民主主義的な統一戦線的運動体が誕生したのである。 ここでは「党派流派を超えて大結集」をはかるためには、創作方法の一致を求めないこと、参加者の対等平等を原則とすること(いわゆる「中核規定」を持たないこと)が必要であったのであり、その困難な「大結集」を促したのは、自由と民主主義への強い渇望があったからであろう。天皇制国家と戦時下で美術家たちが味わった苦難や不如意から解放され自らの意志で自由に生き創作したいという渇望が、さまざまな思想・信条・創作方法を超えた結集を促したものと思われる。そしてこの渇望は「持続的な意志」となって美術運動を支えることになったと言えるだろう。
 とはいえ一応解決を見た困難は尾を引き、状況の変化もあって会発足後もさまざまな議論や葛藤が生れ、会は揺れ動いて来た。例えば、1957 年「美術運動」(第52 号)に載った座談会での桂川寛の発言。——「われわれの仕事は政治とちがって直接的な目的についての妥協ということはない。だから完全に同一の創作方法によって集まるのでなければ統一的な芸術運動ということにはならない。」 これは「党派流派を超え」、創作方法の一致を求めず、多様な方法を認める日本美術会のあり方と真っ向から対立する意見ではある。 あるいは民主的美術運動そのものの「困難」を指摘する意見も出されていた。やはり1957年の「美術運動」(第53号)で、針生一郎は次のように述べている。「日本美術会が多種多様な方法、立場、思想にたつ多くの作家を抱えている現状は、芸術運動体としてきわめて困難な条件だ。」この発言がなされた1957 年当時の会内外の状況を考慮することなしにはその真意はとらえられないだろうが、いずれにしても「多様な方法、立場、思想」を超えた結集そのものが芸術運動体にとってのきわめて「困難な条件」になっていると言われているのである。日本美術会はこのような「困難」を乗り越えて今日に至っているといえば言えよう。しかし私たちはこのような議論を含めて、検討し検証すべき問題を過去に残したままになっていることも確かである。

(2)運動体としての基盤の確立——多様性から多元性、そして多元主義へ

 1960 年代半ば以降、日本美術会は50 年代における混乱や組織的弱体を乗り越え、60 年安保闘争後の「挫折感」を背景とする危機や1962 年のソビエトでの現代日本美術展をめぐる会の存立を脅かすような混乱を乗り切って、美術運動体としての基盤をようやく固めるに至ったとみられる。それは、66 年における念願の美術センター(新橋)の設立や附属美術研究所の開設によってもうかがい知ることが出来る。またそれに先立つ64 年末に地方代表者会議が開かれているが、これは各地に自主的に生まれている各様の民主的な美術グループや展覧会との交流と連携を強め、それらの結集をはかり、各地に根を張った全国的美術運動の展開を展望するものであった。
 60 年代といえば、いわゆる高度成長の時代に当たり、急速な生産力の発達、経済成長第一主義と大量生産・大量消費の時代への突入により、労働と生活の様相は一変し、都市景観の急変とともに開発による地方景観の変化と画一化も進んだ。それは視覚的世界の変化だけでなく、人間にとっての生産や自然の意味の変化をももたらしたと言えるだろう。このような大きな変化にたいして当然美術家も対応を迫られることになった。みずからの感性の問い直し、テーマやモチーフの拡大や選び直し、さらには表現方法そのものの革新など。その対応はさまざまあり得ようが、私の記憶では、60 年代末か70 年代に入ってから、会内でたびたび「表現の多様化」と言われているのを耳にしている。この「表現の多様化」とは、全体として見れば(もちろん個人差はあるが)、この大きな時代的変化へのドラスティックな応答と言うよりも、ゆるやかな(「着実な」)対応であったように見える(当時の会内では「着実な前進」という言葉もたびたび聞かれた)。もともとこの「表現の多様化」とは、モダニズム芸術への過度の警戒やゴリスティックな否定、リアリズムそのものに対する狭い理解、テーマ主義や題材主義などからの脱却を目指すものだったろう。しかし今振り返ってみると、それは60 年代に始まる大きな時代的変化へのゆるやかな対応と重なっていたと解される。
 この70 年代における多様化の追求は、全体としては従来通りのリアリズム対モダニズムというそれまでの対立軸の上でなされていたことは、「美術運動」の誌面からもうかがえる(例えば、1977 年の104 号と105 号は〈リアリズムとモダニズム〉の特集を組んでいる)。しかしやがてそれは質的変化を被ることになる。一言でいえば多様化から多元化への変化であり、それは日本美術会では80 年代なかばに顕在化している。 1985 年の「美術運動」(No.112 1985.2)に載った長田謙一×秀村英史の往復書簡において、日本美術会ではおそらく初めて「多元主義」への同調が語られている。秀村・長田両氏の多元主義の提起は内容的には相対立してさえしているが、いずれにしても多元主義への言及がこの時点でなされていることは、一つの画期として注目される。一方同年の「美術運動」の次号(No.113 1985.7)には、「デイヴィッド・ナッシュ ノート」(北野輝)が掲載されており、その翌年の「美術運動」(No.114 1986.2)には「クリストと現代美術」(森芳功)の寄稿がある。ナッシュやクリストなど「表現の多様化」ではくくれきれないジャンル越境的な同時代芸術への関心と視野拡大が進んでいたことが知られる。
 このような新たな動向にあたかも触発されたかのように、1987 年には、日本美術会の創立会員で当時70 歳を越えていた永井潔から、「日本美術会の諸君がしばしば口にする『アンデパンダン精神』という言葉には、イタリーの文化運動『アルチ』のいうプルラリスタ(多元主義)と一脈通じ合うニュアンスがあるように私は感じている」との発言がなされている(初出・永井潔「あの頃のこと今のこと」(3)、「美術運動」No.116 1987.2、後に『あの頃のこと今のこと』所収)。ここで言われている「多元主義」は、「表現の多元化」に限定されるものではなく、日本美術会の組織と運動、そしてそれらを貫く精神(「アンデパンダン精神」)にかかわるものである。 1989 年の第42 回日本アンデパンダン展から、日本美術会は従来の絵画や彫刻といったジャンル枠を超えたインスタレーションやパフォーマンスなどに門戸を開くことになる。表現の多様化の追求から多元化の積極的な承認(多元主義)へと踏み出したことになるだろう。大局的に見れば、それは世界的規模で進んでいた多元化と多元主義の流れにはからずも——遅まきながら——呼応するものだったと言えよう。多様な民族、人種、マイノリティーなど、彼ら/彼女らの生活・文化の価値を認め、共存をはかるこの流れについてここでは深入りできないが、その中でボーダーレスな展開を見せた現代美術の世界において多元化と多元主義が最も進んでいたのであり、「何でもあり」の混沌状態を呈するまでになっていたことには注目しておきたい。しかしわが会が踏み出した多元主義は、ポストモダンの旗手リオタール(仏)の言う「大きな物語[例えばマルクス主義]の終焉」後の「多元主義」(『ポストモダンの条件』1979 年)や現代美術の「何でもあり」をそのまま肯定するダントー(米)の言う「客観的多元主義」(「美術史の終焉後の美術」1994 年)とは異なり、無方向なたんなる相対主義ではなく、民主的方向(民主主義的指向性)を持ったものだったろう。それは日本美術会への結集が特定の創作方法での一致を求めずにはかられた時、その創作方法の自由が「民主的」という方向付けを持っていた伝統につながっている。しかし、美術表現において何が民主的かが一義的に明らかなわけではない上、表現上のどんな選択も許される美術状況の中で、美術家たちは自らの芸術的立場や表現方法を批判的に問い模索し確立してゆくことをあらためて迫られるようにもなったのである。
 ここで話は戻るが、60 年代半ば以降に確立される日本美術会の運動基盤は、草創期の多元的な結集とは異なる新たな組織編成によることについて一瞥しておきたい。草創期の多元性は、初めに見たように、プロ美系、反官展在野系、人民戦線系など出自の違いや、リアリズム系、シュール系、抽象系など創作方法の違いなどを持つ美術家たちの結集したそれであった(50 年代には、「青年美術家連合」を結成した若い世代などもそれに加わっている)。しかし、こうした形での多元性はその後の推移の中で薄められて行ったことは否定できまい。美術界の再編成、会自身の分裂の危機や混乱などにより、60 年代初めまでに少なくないメンバーが去って行ったからである(その詳しい経緯や原因を現在の私たちは知らないままで過ごしている)。
 これに対して1960 年代半ば以降における美術運動体の確立は、会草創期におけるような多元的結集の上にではなく、全国的な革新勢力の伸長を背景とした会員の新たな編成替えとともに進んだとみられる。健在する創立以来の作家に加えて、各地に生まれている民主的傾向を持つ美術グループや作家の結集が進み、さらに美術系大学の卒業生や民美の修了生など若手も加わって、日本美術会は、ベテラン、中堅、若手による構成体、しかも各地方に根を張った全国的運動としての体を成すことになったとみられるのである。そして「表現の多様化」の追求も、このような編成替えされた基盤の上で進み、80 年代の多元化への転換も主としてこの基盤に立った美術家(特に若手)たちの成長と社会的・美術的状況の変化への対応として成されえたのであろう。
(3)日本美術会の現地点、とりわけ3.11 以後
 1987 年に、「アンデパンダン精神」という言葉にはイタリアの文化運動「アルチ」のいうプルラリスタ(多元主義)と一脈通じ合うニュアンスがある、と指摘していた永井潔は、2006 年に、この「多元主義」をより包括的に「中核規定を持たない多元主義的連帯」ととらえるに至る(90歳記念展レセプションでの挨拶、および『あの頃のこと、今のこと』「あとがき」)。これは永井が、2004 年に発足した九条の会の運動が各地の市民と各分野に自主的・多元的に広がっていったことに鼓舞されて、日本美術会創立の精神を受け継ぎ発展的にとらえ直したものだと解される。すでに見たように、多元的な動きや発想を一つに結集した会は、「党派流派をこえた大結集」を目指したこと、創作方法での一致を求めなかったこと、そして中核規定を持たず徹底した対等平等の連帯を目指したことに特色を持っていた。それらを発展的に包括した「中核規定を持たない多元主義的連帯」の原則は、紆余曲折を経て十分とは言えないながら、会の組織と運動とアンデパンダン展に体現されて来たと言えようし、これからも発展的に追求されて行くべき「理念」となるものだろう。 ここで注目しておきたいことは、永井潔によるこの原則規定が会内外の美術家たちの表現の多元化に呼応しているばかりでなく、九条の会の自主的・自発的な市民運動の全国的な展開に鼓舞されて形成されているとみられることである(永井自身、九条の会に触れている)。そしてその市民運動との共振は、永井亡き後の3.11 後に鮮明になるのである。
 確かに永井潔による「中核規定を持たない多元主義的連帯」とは硬い(若い人たちにとっては馴染みにくい)表現だが、その心は、「いろんな考えを持っている人が一つのことで力を合わせることは良いことです」(福島県のある町の元町議会議長佐藤修一氏の言)というやさしい言葉と通じ合っている。何よりも個々人の自主性・自発性に基づく参加、対等平等の原則、思想・信条・立場を超えた連帯・共同(違いを認め尊重し合う=「リスペクト」し合う)、等。3.11 以後、脱原発、秘密保護法反対から戦争法反対へと展開されて来た自主的・自発的な市民運動は、民主的美術運動(文化運動)と新たな市民運動(社会的・政治的運動)の違いを超えた原理的な共通性を浮かび上がらせてくれた。昨年7 月の参院選での主権者主導の野党共闘を「市民革命」と評価する見解も出されており、少なくともそこに主権者の自発性に基づく真の民主主義を確立する歴史的契機を見いだすことは出来るだろう。実は永井潔はそれに先立ち(1987 年)、創立に当って日本美術会が採った「中核規定を持たない」運動形態は——それが適切に活かされれば、との条件付きながら ——「文化運動がほんとうの意味で啓蒙主義を乗り越えて一つの大衆的自発性を確立する歴史的契機になりうる」(『あの頃のこと、今のこと』)との展望を示していた。この運動形態は、「何が正しいか、皆で一緒に探しましょう」(永井)とやさしく言い換えられるが、それは上に引いた「いろんな考えを持っている人が一つのことで力を合わせることは良いことです」(佐藤)という言葉とともに、美術運動(文化運動)と市民運動(政治運動)の違いを超えた共通の精神を言い表していると言ってよいだろう。こうした自主的・自発的な市民運動の展開は、美術家と美術運動の立ち位置の新たな自覚化を促すことになっている。例えば近代のアポリア(難問)といえる芸術家の「自律/自立」も、市民と共通の「人権(個人の尊厳)」と「主権」のレベルにおいてとらえ直されることだろう。
 美術運動が市民革命と歩みをともにする時代の到来?だがそれは、各地の各分野で表現の自由への圧迫が進み、日本が「戦争する国づくり」へと転じ、立憲主義、民主主義、平和主義が根底から脅かされている危機に呼び覚まされたものだ。創立70 周年を迎えた日本美術会が立っている現地点では、戦後最大の危機とそれに抗する新たな希望の芽吹きがせめぎ合っている。この危機にたいして、私たちは表現の自由を守り発揮し、美術家同士と市民の「多元主義的連帯」の拡大と適切有効な機能化によって立ち向かう以外にはないだろう。
 最後に、創作活動の発展と「中核規定を持たない多元主義的連帯」との関係について一言だけ補足しておきたい。それは創作活動の発展(「新しい価値の創造」、現行『日本美術会趣旨』)を自己目的としている美術運動と社会的・政治的運動との相対的な違いにもかかわっている。創作活動における「非妥協性」と追求の「無限性」は、本来「他者との連帯」に馴染まないのではないか、との危惧もないではない。しかし「多元主義的連帯」は、それぞれの自主性・自発性・創造性を尊重し前提とするから「多元主義的」「連帯」なのである。異質な表現、価値、価値観の他者性を尊重した共存・共同は本来、創作活動を活性化し発展させるだけでなく、参加者それぞれの芸術的・人間的な成長(自立性)をも促すだろう。しかしそれはあくまでも「原則」にとどまる。日本美術会と日本アンデパンダン展がどれだけあるべき「多元主義的連帯」の場となっているか、絶えざる自己点検と創意工夫と努力が求められているのである。