創立70周年記念 日本美術会 日本アンデパンダン展 

作品と歴史 1997~2016

目次
ごあいさつ
作品図版 50回展(1997年)~69回(2016年)
物故会員作品(1997年~2016年逝去)
平面 平面1 平面2 平面3 平面4 平面5 平面6 平面7 平面8
彫刻 立体 工芸 インスタレーション等
作品画像ページインデックス索引
論文・日本美術会のあゆみ・年表・資料
日本アンデパンダン展-その原点と現地点/北野 輝
抵抗して繁れた美術家からの伝言/荒木圃臣
近年の日本アンデパンダン展と日本美術会員への期待/上野一郎
グローバル化時代の日本美術と民主的発展の課題/武居利史
日本美術会のあゆみ5 創作と会活動の高揚期1972年~1988年
日本美術会のあゆみ6 多様な創造と時代の表現1989年~2000年
日本美術会のあゆみ7 新たな活動の場へ2001年~2016年
「民主主義美術研究所」一民美の50年史
国際交流史
戦争と平和への運動と創作
年表(1997年~2016年)
資料  掲載図版
編集を終えて

ごあいさつ  

2016 年、日本美術会は創立70 周年を迎えました。先輩たちの秀れ た創作や会の歴史は「50 周年記念誌」にも収められていますが、創立 70 周年を迎えるにあたり、その歴史を受け継ぎ共に悦こぶと同時に、 さらに将来を切り開くために「創立70 周年記念誌」を発行致します。 併せて、第70 回記念日本アンデパンダン展では特別展示や資料展示、 アート・フォーラムなどを行い、会の趣旨、事業、理念を総括し、一 層の発展を誓いたいと思うものです。  

日本美術会は創立以来、美術の民主化と表現の自由、美術の新しい 価値の創造を掲げ、反戦、平和を守ることを責務として運動と創作の 活動を行ってきました。創立70 周年にあたり、美術家としてあらた めて初志を振り返り、再挑戦したいと思うものです。  近年の日本アンデパンダン展では「時代の表現・生きる証」をテー マに掲げ、今を生き、くらし、時代を見据えて制作した作品が、来館 していただいた鑑賞者と共に、希望や悦びのひと時をつくり、共感し ていただいていると信じています。  

人間の幸福や自由・希望は何ものにも代えがたく、美術と深く結び ついております。しかし、今日の日本の政治は戦争法の強行採決、特 定機密保護法、共謀罪の導入計画など政権の暴走が止まることがなく、 憲法の民主主義・平和主義の破壊であり、多くの国民の不安や悲憤を よびおこし、さまざまな人々の「反対!・やめろ!」の声が沸き起こっ ています。世界でも極端な格差社会やテロの不安が拡大し、新たなナ ショナリズムが強まるなど、危機と混迷が深まっています。  

私たちはこうした現実をしっかりと見据え、創立の原点に立ち、創 作活動と社会の運動に取り組んでいきます。  

最後に、この記念誌がグローバル化されたアートの世界でどう受け 止められるか、会が目指している「民主主義アート」の探求やその運 動に注目していただけるか、愛読していただき、忌憚のないご要望な ど頂ければ幸いです。  

今後とも暖かいご援助、ご厚情を賜りますようお願いいたします。

「日本美術会創立70 周年記念誌」 編纂委員会

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掲載図版は第50 回展以前に逝くなられた会員の作品です。
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糸園和三郎 「黄色い水」 (1968年) 第50回検証展
尾崎ふさ「ニシンの来なくなった漁場」 第17回展
水谷光江 「道」 第37回展
澤田俊一 「魚と人」(1968年第50回検証展
井上肇 「戦友」 第33回展
白水興承 「アニマルの季節」 (1972年)50回検証展
小野忠重 「広島の川 (1966年) 第50回検証展
川内伊久 「白昼の風景 狂犬走ル」 第27回展
渋谷草三郎 「メコンデルタ」 (20回頃)
池田龍雄 「巨人」 第9回展
滝平二郎「鎌(その2)」 第17回展
まつやまふみお「わたしはひばりがききたい」 (1968年) 第50回検証展
中谷泰 「はたおり」 第26回展
井上長三郎 「ベトナム」 (1965年) 50回検証展
新海覚雄 「独立はしたが」 第6回展
中島保彦 「ボタ山の母子」 (1960年代) 第50回検証展
金野新一「落盤」 第9回展
中村 宏「砂川五番」 第9回展
本郷 新 「嵐の中の母子像」 第9回展
内田 厳 「少女像」 第6回展
鶴岡政男 「重い手」 第4回展
山下菊二 「オト・オテム」 第4回展
丸木位里・俊 「八月六日」 (後に「原爆の図 第1部 幽霊」と改題) 左部 第3回展

物故会員作品(1997 年〜2016 年に逝去)

谷内栄次 「入り陽」 M 200(50回展)

常田 健 「水引き」 F40(50回展)

箕田源二郎 「みんな8才(トウンにて)」 F40(50回展)

永井 潔 「松田解子さんの像」 F20(50回展)

5

吉田利次 「炭鉱の男たち」 変200(51回展)

石川和彦「自然と人間 ダム」 185×260×165cm(50回展)

吉井 忠「イランの少女」F50(51回展)

平岩 攻 「母と子」 F50(50回展)

6

羽田信彌 「寺社 神楽」(52回展)

鳥居敏文「ラ・リべルテ」 F30(52回展)

半田敬史郎 「森の由来」 30×80cm(50回展)

宮田耕二 「田植えの頃」 30×45cm( 51回展)

7

富田弘一 「休耕田①」 F50(53回展)

高橋伸樹 「チョッキン チョッキン」(54回展)

小坂元二 「地の聲2001- 作品17」 162×261cm(54回展)

長谷川匠 「蒔く」 M60(53回展)

8

藤岡祐二 「紀南漁村」 F50(55回展)

酒井 健 「団地の中の私」 F100(55回展)

遠藤駿二 「沈黙」 F100(54回展)

伊川 厳 「『蝕』02-3」 F50(55回展)

9

杉本 博 「160(青春)」 M100(55回展)

西 良三郎 「夏の日」 F100(56回展)

はらたはじむ 「おばあさん 96 歳誕生日を祝う会」(57回展)

遠矢浩子 「混迷」 F50×2(57回展)

10

藤原 梵 「森が動く時」 90×180㎝ (58回展)

小副川美津 「小さな対話」 F40(59回展)

飯島靖治 「ジプシー」 63×47cm(60回展)

結城あつみ 「赤い月」 79×109cm(60回展)

11

三好秀憙 「生、その記録として」 100×100×20cm(60回展)

吉澤嘉枝 「亡き人を偲んで」 F60( 63回展)

川上十郎 「贄(にえ)」 変140(62回展)

12

平面

相田 勤 「ダンス」 50×75cm(68回展)

青木鮎美 「母」 F80(61回展)

青木健真 「アホのミクス狂奏曲」 F80(69回展)

相沢まり子 「海を返せ!」 全紙(63回展)

13

阿久津 隆 「大流行」 F50(66回展)

足立憲子 「焔」 F50(67回展)

新井洋子 「藍の缶とリンゴ達」 F30(69回展)

荒川明子 「内なる景」 F100(67回展)

14

浅川光一 「FUKUSHIMA.MELT-DOWN」 F80(69回展)

安達幸子 「2013 みんなと遊びたい」 F150(66回展)

阿部正義 「諏訪の踏切」 F6(64回展)

東岡 守 「モンゴルの少女」 135×85cm(67回展)

15

荒木國臣 「難民キャンプの少女」 F8(61回展)

有澤清美 「白い花」 6 号(67回展)

井川雍子 「あれから2年 Ⅰ」 F50(66回展)

安斎正夫 「波影」 F60(69回展)

16

安藤ニキ 「Phenomena( フェノミナ)」 F100(69回展)

池田優子 「鼓動」 F80(67回展)

石井 克 「テレジンB(チェコ・ナチス強制収容所)」 F60 (69回展)

池尻 都 「二人」 S100(69回展)

17

伊勢亀君代 「刻」 F100(68回展)

石田昭子 「花火」 変80(55回展)

石井みほ 「マナ・生ずる」 F50(69回展)

石口ひとみ 「欲望」 100 号(66回展)

18

石田 浩 「都会模様」 S100(69回展)

石動幸記 「誘拐」 97×54cm(67回展)

石野泰之 「追憶の譜Ⅱ・南京1937 年」 F100(68回展)

井田秋雄 「対岸風景」 M60(55回展)

19

市川佐江 「チャリティ 東日本大震災支援クロッ

キー会に参加して」 M30(65回展)

井出いそ江 「諦めない。」 F100(69回展)

石原敏子 「よびかけるⅠ」 F30(68回展)

井上克己 「切れたまま…」 F20(68回展)

20

伊藤ヒサ子 「記憶の底から」 66×85cm(67回展)

伊藤定夫 「誰もいなくなった②」 F60(63回展)

伊藤美惠子 「マラケシュのスーク」 F50(62回展)

伊藤嘉夫 「何処まで…フーッ!」 M120(64回展)

21

伊藤八枝 「近づく戦禍―鳥を抱く子ども」 25 号(57回展)

稲井田勇二 「春近し」 180×225cm(57回展)

稲尾健二 「眠る巨人」 182×273cm(53回展)

岩崎 孝 「解こうとす」 F60(50回展)

22

上野正美 「寝にくいベンチ」 P50(67回展)

岩井健二 「記憶Ⅱ」 F100(69回展)

今井 香 「その先に」 F30(69回展)

今井祥次 「メメント・モリ 死を想へ」 56×111cm(68回展)

23

遠藤林子 「砂丘と海と太陽と」 F100(69回展)

上原二郎 「病・老・痴呆・死」 180×270cm(57回展)

大塩幸裕 「牛」 F4(67回展)

上原まさのり 「混沌の中の民衆への支配」 F100(69回展)

24

太田眞素巳 「雨」 S100(67回展)

江草昭治 「カンダハール(A)」 F100(55回展)

大野恵子 「巣ごもり」 F100(69回展)

大塚ただし 「会いたかったよ」 F50(66回展)

25

岡本祥子 「棄民」 120×150cm(67回展)

大野 修 「いのちありしもの」 F100(67回展)

岡本 博 「風景(1)」 M100(50回展)

大島和子 「イェローケーキ〈イラク〉」 S100(60回展)

26

岡田たけし 「木の話2」 87×148cm(65回展)

大森宗次 「大地の叫びⅠ」 F50(68回展)

オザキ・ユタカ 「コンポジション・2016」 S50(69回展)

大野美代子 「宇宙からの伝言」 S100(60回展)

27

落合峯子 「平和を―日本国憲法前文―」 52×72cm(2003 年)

落合博子 「民主主義は止まらない」 F50(69回展)

片岡利朗 「下町の川」 95×75cm(67回展)

小原 寛 「いわきの空・放射能さらば」 F100(67回展)

28

小野章男 「海と空の怪物」 P50(2008 年)

金井陽子 「陽」 F30(64回展)

加藤義雄 「少年時代」 S100(68回展)

尾関朝子 「向こう側へ」 S50(56回展)

29

加賀節子 「彷徨」 F60(63回展)

金井節子 「富岡・2014 年・10 月」 F6(68回展)

蟹江恵三 「茸雲の立つ前」 S100(60回展)

鏑木良子 「夏の叢」 117×80cm(67回展)

30

神尾政秀 「ブラックアウト!民意点検」 F30(68回展)

金谷洋枝 「インドの村で」 F50(65回展)

刈谷拓爾 「空爆」 F50(69回展)

香川久司 「叫び」 184×183cm(60回展)

31

川島恵美子 「亜拉神山(中国)」 F100(65回展)

唐沢恭二 「雪の八海山」 F40(68回展)

菅野偉男 「3.11 から5 年」 P50(69回展)

辛島菜緒 「カオス①- A(黒い欲望)」 F50(69回展)

32

川田規子 「QUESTION (B)」 F50(69回展)

川村圭三 「或る風景」 S60(60回展)

川原康男 「地の上のすがた」 F100(63回展)

川本 久 「燃える花 No.119」 91×170cm(69回展)

33

木村悦朗 「Happy Halloween」 F130(69回展)

貴志早苗 「3.11 鎮魂歌」 全紙(65回展)

桐生明夫 「トルソーを彫る」 F40(69回展)

菊池英喜 「コブシ満開(2016)」 P100(69回展)

34

久保田勝巳 「風雪に耐えて」 S50(68回展)

喜多浩也 「雨中声々図」 178×97cm(69回展)

窪田旦佳 「鳥の不安」 F120(52回展)

鯨井 洪 「沖縄の悲劇(集団自決と重慶)」 F120×3(68回展)

35

熊澤常男 「都市の風景」 F120(54回展)

熊谷 榧 「5 月3 日憲法の日、白の家の人たち」 F80(69回展)

倉田章子 「ひととき」 F50(65回展)

倉田 新 「平和の鳩時計」 B2(69回展)

36

倉田るみ 「2015 年7 月のこと」 60×45cm(69回展)

木村敏子 「草のれん」 F40(62回展)

倉林一雄 「妹を殺したのはだれ?」 F50(57回展)

熊谷イサオ 「裏通り」 F100(68回展)

37

小番つとむ 『ふくしま「セイタカアワダチソウ」』 S100(68回展)

桑原康枝 「パッケージⅡ」 F30(69回展)

栗原せん三 「木のメッセージ」 F100(66回展)

黒田 孝 「矢臼別ホテル」 S60(58回展)

38

小池莊市 「戦争法廃止・野党は共闘」 F50(69回展)

児玉房子 「いのち」 12 号(50回展)

光沢正子 「赤石山」 F80(68回展)

小西明子 「月下美人ー2011(夜)」 F50(65回展)

39

小林繁和 「遮断された風景」 F100(62回展)

小林喜巳子 「土手の道」 45×90cm(53回展)

小林敬子 「ここに生きる」 F50(68回展)

小西勲夫 「遺品(B29 エンジン)」 F100(60回展)

40

小林博之 「千倉早春」 F20(61回展)

小堀義廣 『「子育て地蔵」を抱えた大

ケヤキ』146×60cm(64回展)

小林春規 「船」 27×38cm(69回展)

小林真由美 「冬野菜」 F30(60回展)

41

小山景子 「原爆痛い魂 黒い雨」 F100(66回展)

笹沼熙子 「被災地の母」 F15(69回展)

小松博映 「浚渫機」 F130(62回展)

小室 寛 「家族の肖像」 F50(55回展)

42

佐藤惠子 「雪の朝」 F30(69回展)

近藤 博 「冬瓜 3.11」 F50(65回展)

小山善之 「五百羅漢・喜多院」 73×195cm(68回展)

笹本忠志 「’96 暮れの室内」 変110(50回展)

43

佐藤勝紀 「戦争法反対集会」 182×273cm(69回展)

佐伯建夫 「LAPPI SAPMI Ⅱ(ラップランドのサーメ人)」M100×2(60回展)

佐藤善勇 「2011 年3月11 日を忘れぬ為に、

そして3月30 日を」 F120(65回展)

坂下雅道 『戦没「またやろうって言ってる」』 変100(58回展)

44

佐藤瑞江子 「未春」 P40(69回展)

佐藤俊夫 「砂利採取の痕跡」 194×521cm(61回展)

笹間 宏 「とびくじらにのってⅠ(エストニア)」 F50(66回展)

佐藤 勤 「月の微笑は鉛のように」 137×208cm(69回展)

45

篠崎カツミ 「古面・1994」 44×33cm(51回展)

清水敦子 「あっ」 F30

佐藤 寛 「ふくれっ面の案山子」 F40(67回展)

清水直子 「冬のおわり」 M30(61回展)

46

佐藤忠克 「食卓」 F80(69回展)

佐藤美保子 「あの日」 F40(68回展)

佐藤幸子 「桜咲く頃」 F40(63回展)

首藤教之 「ICON(2013)」 360×145cm(66回展)

47

正田幸子 「地の詩」 F30(67回展)

下田紀史 「空の記憶- 2」 65×130cm(64回展)

十滝歌喜 「3.11(未完)」 182×274cm(65回展)

杉村倉太 「みつめるアフリカ」 273×116cm(67回展)

48

菅沼立男 「村里」 F80(60回展)

杉山栄子 「自画像(うでまくり)」 F40(59回展)

柴崎ときえ 「野辺の送り」 F80(56回展)

新谷香織 「チェルノブイリと福島」 150×300cm(65回展)

49

杉山まさし 「整列」 F50(68回展)

須藤勝子 「生」 F20(65回展)

杉山喜代子 「黒い服の人形」 F30(67回展)

鈴 ちづ子 「風が吹いてきた(門司港)」 F100(68回展)

50

鈴木辰夫 「浜の風景(蘇生)」 F100(56回展)

仙石美智子 「犯人は誰れ」 P50(65回展)

代田一行 「いずこも同じ秋の夕ぐれ」 F40(67回展)

関上 弘 「白杖」 F40(66回展)

51

双山盛春 「NANAHA(1)」 F80(67回展)

杉江その 「願い」 F60(68回展)

高瀬忠一 「コンポジション」 M100(69回展)

高津年章 「望郷」 全紙(69回展)

52

鷹橋 昭 「空き缶と米袋」 F30(68回展)

高橋あけみ 「屋久杉」 F30(69回展)

高橋健治 「私の終着」 F50(69回展)

鷹橋絢子 「スカーフと椅子」 F30(68回展)

53

武田昭一 「異変する空A」 86×91cm(64回展)

武田健一 「春(陽だまり)」 F50(67回展)

高橋清一 「母と子Ⅱ(抱く)」 60×45cm(64回展)

園 和恍 「灰色の風景」 P60(60回展)

54

田中正巳 「壊れかけた太陽」 182×273cm(57回展)

田中節子 「墓場に避難します」 大全紙(65回展)

武田治枝 「直ちゃん、どこへ行きたいの」 F3(69回展)

田邊惠子 「あの日から」 F20(65回展)

55

高見孝一郎 「やんばる」 65×50cm(68回展)

高見健二 「モンマルトルの庭」 F30(69回展)

田沼達子 「夜明け・命をつなぐ」 F50(69回展)

丁 厚子 「希求」 25×22cm(69回展)

56

高橋美子 「太古の人へ」 F60(66回展)

田宮 豊 「Yu-Hi」 90×180cm(68回展)

谷 繁男 「塩の道たどりてゆけば」 F30(66回展)

堤 彰 「鳥・叫び」 120×91cm(68回展)

57

手島邦夫 「歳月」 F100(69回展)

坪井功次 「鴉の朝」 194×261cm(59回展)

常盤 博 「石棺とコウノトリ」 270×180(68回展)

田村久榮 「Michelle」 M80(64回展)

58

豊岡 CHIE 「ツナミ:波が黙るときはワダツミの人探し」 F50(66回展)

堂上哲也 「芽生え」 F150(67回展)

寺西信彦 『歌劇「ポッカネグラ」』 F120(67回展)

峠 徳美 「盛岡さんさ踊り」 S60(68回展)

59

友成光臣 「青い空 3.11」 F100(65回展)

鳥飼丈夫 「再生の時」 F130(65回展)

中川セツ子 「18 才選挙A」 P80(69回展)

遠山元子 「命がいっぱい(三番瀬の岸辺)」 40 号(54回展)

60

中川勝博 「カラフルドリーム」 F100(69回展)

中田耕一 「目立て」 136×96cm(66回展)

長岡耕太郎 「鎮魂(ガマ)」 F50(63回展)

富丘太美子 「鋳物工場」 F100(69回展)

61

中村凡之 「戦争法案は廃案に!!」 F50(69回展)

中平 拓 「陸に上がった漁船」 F60(65回展)

中川忠司 「新緑の千枚田」 F100(68回展)

中橋 肇 「ミッドナイトタウン」180×90cm(56回展)

62

中谷小雪 「春の仕事」 F60(69回展)

中谷田鶴 「青年」 M40(69回展)

中津川ヒロ子 「志を運ぶ人」 120×90cm(69回展)

中村裕子 「母の体験…私の九条」 F50(62回展)

63

中森 伸 「遠足」 F30(68回展)

西村順子 「アマルフィー」 P30(68回展)

新美 猛 「チェロをひく男(Y・I 氏追悼)」 F60(51回展)

鳴海由光 「重い局面」 162×260cm(54回展)

64

布目 勲 「面」 90×182cm(51回展)

根岸君夫 「自画像(戦後60 年に…)」 F100(59回展)

西村幸生 「ベーリンジア(6)」 F100(69回展)

新美朝野 「午前二時」 41×41cm(64回展)

65

芳賀猛夫 「空虚を越えねば」 160×276cm(68回展)

萩原隆明 「2011.3.11」 98×261cm(65回展)

服部証次 「美ら海」 P60(69回展)

橋壁由美 「晩秋の棚田」 F50(69回展)

66

橋本和明 「九条を世界に!」 360×810cm(63・64・65回展)

春木芳子 「ケチャックダンス(ラーマーヤナ)」 F80(65回展)

林 繁樹 「春がきた」 F50(64回展)

原 東彦 「農家」 F50(64回展)

67

半田加恵 「桜咲く頃(安曇野)」 F50(63回展)

日比野正壽 「黙」 S80(66回展)

菱千代子 「花はどこへ行った」 S100(66回展)

樋口博徳 「水平線」 P100(65回展)

68

深谷 滉 『「3.11」のふくしまは―。』 180×360cm(67回展)

原田省三 「穂高連峰」 47×54cm(62回展)

東 ちひろ 「ピアニスト」 F30(68回展)

深谷 宏 「形跡1」 P60(69回展)

69

平野哲男 「海から」 195×260cm(67回展)

平谷倔司 「東紀州の漁村」 80 号(55回展)

福岡 清 「海辺のコンポジション」 F60(69回展)

堀内俊二 「津軽世去れ」 P100(61回展)

70

藤井剛志 「鎮魂」 150×270cm(65回展)

古川武男 「独裁者」 F80(69回展)

藤井 守 「杜・火・水」 S100(68回展)

藤田日出男 「遠くなる故郷」 P100(67回展)

71

藤田 紀 「若者たち」 F50(51回展)

星 功 「ユダヤ人の家族」 F100(69回展)

藤原百合子 「風景」 F10(69回展)

星野文和 「微かな音」 変50 号(67回展)

72

藤平 肇 「里山薫風」 F60(67回展)

堀江美津 「命・生きる・希望」 F100(68回展)

星島澤子 「漂流」 F20(69回展)

藤田喜久 「わたしらの村」 P100(66回展)

73

古澤 潤 「IRAQ BODY COUNT 死者の譜Ⅴ-12,344 -」181×273cm(60回展)

星野金司 「07 旅情」 F50(61回展)

細川允史 「燃ゆる北穂高滝谷」 F30(65回展)

前田敦博 「Tomari・Ⅰ」 F50(65回展)

74

松下明敬 「DRAWING WORK'12 ~ FLASH BACK 3.11 ~」(65回展)

政岡悦子 「ミモザ咲くとき Ⅱ」 50×35cm(64回展)

眞住高嶺 「アルルの跳ね橋」 F120(59回展)

松岡暁子 「GENESIS 1:11-13」 50×73cm(69回展)

75

松村憲一 「嫁が来た夏」 123×93cm(66回展)

松戸香珠代 「BEAT -秋」 F100(69回展)

松山しんさく 「鳥 窺う」 F50(68回展)

三田久美子 「アート・ペッパーを聴くY」 100×65cm(69回展)

76

松本晶子 「ジュゴンが愛する海:へのこ」 S20(68回展)

三瓶民江 「畜魂」 F30×2(64回展)

三浦裕美 「室内」 P100(60回展)

丸山 泉 「レクイエム・津波」 F60(65回展)

77

宮田啓子 「太古のムラ」 F80(61回展)

美濃部民子 「都市伝説ー外は雨」 F60(69回展)

宮下 泉 「パスタ」 F120(69回展)

美馬恭子 『’92「自画像」』 F30(67回展)

78

目黒郁朗 「コンクリート水路」 130 号(63回展)

宮本和郎 「使い込まれた背負い篭」 F30(58回展)

村永 泰 「おうさま」 S100(58回展)

百瀬邦孝 「春耕1-4」 180×260cm(55回展)

79

宮本能成 「海への祈り」 130×195cm(67回展)

御笹更生 「安全神話・日本人は四度被ばくした」 F100(68回展)

三﨑冬男 「生命の証・尾八重の一本杉」 149×228cm(65回展)

森 ヨウ 「光を司る分母と分子」 B1(66回展)

80

村上伊三雄 「寒立馬―地吹雪の日に」 F80(55回展)

茂木勝明 「人物」 F100(68回展)

宮良瑛子 「島人(シマンチュ)」 170×200cm(58回展)

宮本秀信 「ゆくて」 S100(69回展)

81

森田隆一 「沈黙の譜」 182×273cm(68回展)

森 志らべ 「花は、花は、花は咲く」 M30(68回展)

矢田茂喜 「地平」 F50(69回展)

森田優子 「繁殖するころ」 F80(69回展)

82

八木邦子 「石の街A」 F100(64回展)

薮内良子 「詩人・尹東柱(ユン トン ジュウ)

への鎮魂歌」 M100(63回展)

安 名穂美 「何処へ」 F50(69回展)

矢島政男 「男の顔」 F30(62回展)

83

山崎 晃 「フラメンコの衣裳で 女優

渡辺えりか」M100(66回展)

山内貴美子 「お家へ帰ろう」 P40(68回展)

山形良子 「谷川岳」 P40(66回展)

山内齋子 「幸せなキリン」 F40(65回展)

84

山川信子 「フニクリ フニクラ」 56×74cm(67回展)

山岸 稔 「新しい家族」 F60(64回展)

山内比呂子 「気まぐれな地図」 F100(69回展)

薮内 好 『「ピースとホープ( 三部作)」

沖縄(フクシマ)―ヘリコプターとでいご』 84×60cm×2(68回展)

85

山口さざ子 「老犬」 F80(50回展)

山崎康子 「海原」 F100(67回展)

山下二美子 「氷輪・風下の地」 130×320cm(65回展)

山崎美恵子 「2008 RANRU シリーズより 何処へ」F80(61回展)

86

吉田雅子 「再開を待つ鉄路・浪江駅」 F30(69回展)

山信田 稔 「内戦のあった村」 109×212cm(51回展)

渡辺美代子 「のらねこ一匹」 30 号(69回展)

吉田東吾 「Landscape-99」 F100(52回展)

87

山本 悟 「蛸釣る少年」 P15(67回展)

米村直三 「シャルトルの橋」 F20(61回展)

山中成子 「白バラ—1943.2.22」 F100(69回展)

山田みづえ 「宙からの誕生」 F80(69回展)

88

吉見敏治 「壁 0704」 F100(61回展)

若山保夫 「浮遊」 182×182cm(69回展)

渡邉勝一 「室内(A)」 F80(67回展)

渡辺佳子 「切株の詩」 F50(69回展)

89

渡辺 学 「明日も在るか」 F100(69回展)

山本良三 「炎(1945 年)」 146×336cm(60回展)

渡辺皓司 「現代化石考」 90×180cm(60回展)

90

渡辺柾子 「現代人の憂鬱」 150×88cm×2(64回展)

野中歌子 「花」(60回展)

遠藤欣子 「メキシコシリーズ チアパスに立つ」 F100(56回展)

91

彫刻 立体 工芸

河合万里子 「ピエール」 33×18×24cm(69回展)

河野 新 「あつこさん」 実物大胸像(69回展)

金田 勉 「人・オキナワ」 170×50 ×40cm(69回展)

石井眞弓 「立つ」 40×30×75cm(68回展)

92

川上俊子 「深層からの響き・Ⅱ」 33×37cm(67回展)

大島美枝子 「枝人-ツナグヒト-」 170×72×55cm(65回展)

大橋雅子 「3 つの星果実」 130×180cm(64回展)

岡部 昭 「森と空」(彫金)175×59cm(68回展)

93

高橋威足 「路上生活者」 60×90×30cm(69回展)

田中優子 「WOMAN」 230×186cm(66回展)

笹村カヨ子 「陽」 15×20×30cm(68回展)

貴志カスケ 「TOKI は経ち」 W270×D60×H100cm(63回展)

94

志村ミサ子 「太田の青年」 60×35×25cm(63回展)

久村 進 「邂逅」 70×50×40cm(53回展)

中井由純 「自虐者 ’13 RESIST」

120×30×30cm(67回展)

中村武正 「核・破滅への第一歩」 33×33×33cm(66回展)

95

冨田憲二 「漂泊1999」 275×65×92cm(52回展)

田平 徹 「Paulus の伝言」 W120×D30×H120cm(69回展)

本間恭子 看護学生 18×33×38cm(67回展)

山本明良 「万象-飛行船」 150cm(69回展)

96

吉田光正 「すべる」 180×60×170cm(52回展)

吉村けい子 「北斗・2016」 40×30×75cm(69回展)

〈第60回展彫刻室〉

97

インスタレーション等

井上活魂 「夜露死苦」 300×300cm(62回展)

根木山和子 「羽化―いのち―」 160×80cm(68回展)

旭 義信 「カオスモス2012[MIXTURE]」 300×400cm(65回展)

98

梅村哲生「TESHIMA(100 万トンの産廃から蘇る島)」

〔シートを拡げた場合〕幅500 ×高さ350cm(69回展)

木村勝明 「記憶の箱―フクシマ―」 80×200cm(65回展)

林 伸明 「アロマなお家」(62回展)

越部清美 「縄文考Ⅱ(パフォーマンス)」(61回展)

99

藤浪佳子 「Yesterday」 和紙造形 50×60cm(69回展)

森田理知子 「布絵と布絵本」 200×200cm(67回展)

〈インスタレーションスペース会場風景〉

(51回展)

100

(52回展)

(53回展)

(54回展)

101

日本アンデパンダン展—その原点と現地点

北野 輝

 以下の小論は日本美術会の民主的運動体としての変化を大まかにたどったものであり、創立時を含む会の特色を大局的見地からとらえてくれている永井潔『あの頃のこと、今のこと』(日本美術会、2008 年)を主な手がかりとして綴られている。本文の展開では、会創立時の多元的結集という原点を確認し、現地点における「中核規定を持たない多元主義的連帯」において、戦争法反対の自主的・自発的な市民運動などにより、美術運動(文化運動)と市民運動(政治運動)のちがいを超えた共通性があらわにされたことを指摘するものとなっている。
(1)日本美術会の出発——多元的な動きと発想の結集
 1946 年4 月21 日、日本美術会は創立総会をもって出発するが、それに至るまでには民主的美術団体へと向かうさまざまな動きや発想と議論があった。この間の動向については、「[45 年末には]戦後早々に芽ぶいた民主的新美術団体への多元的な動きが、一つに結集されはじめた」「もともと多元的発想の集まりであったから、会の性格についてはかなり議論が紛糾した」(日本美術会『日本アンデパンダン展の25 年・歴史と作品』1972)と回想されている。この中で、特に「多元的な発想」と「多元的な動き」と述べられている点に注目したい。日本美術会は、もともとさまざまな美術家とグループの多元的な発想と動きを、一つに結集することから出発したのである。会の性格については、創作方法の一致を求めるもの、美術界の機構改革だけを目標とするもの、経済上の相互扶助組合を求めるもの、諸流派の協議体を目指すもの、等々さまざまな発想があった。結集した美術家たちも、プロレタリア美術系、反官展在野系、抽象美術系、シュールリアリズム系、リアリズム系、等々とさまざまであった。そのようなさまざまな美術家たちやグループが、「今こそ、党派流派を超えて大結集し、真しに、活発に創作活動に立ち向かわなければならない。このことは、民主的な文化日本建設の一環として、一つの力になるだろう」(日本美術会「創立宣言」1946 年4 月)との意気に燃えて会は発足した。当時の綱領には「民主的美術文化を創造し普及する」とも明記されている。ここにさまざまな思想・信条・表現方法を持った美術家たちの民主主義的な統一戦線的運動体が誕生したのである。 ここでは「党派流派を超えて大結集」をはかるためには、創作方法の一致を求めないこと、参加者の対等平等を原則とすること(いわゆる「中核規定」を持たないこと)が必要であったのであり、その困難な「大結集」を促したのは、自由と民主主義への強い渇望があったからであろう。天皇制国家と戦時下で美術家たちが味わった苦難や不如意から解放され自らの意志で自由に生き創作したいという渇望が、さまざまな思想・信条・創作方法を超えた結集を促したものと思われる。そしてこの渇望は「持続的な意志」となって美術運動を支えることになったと言えるだろう。
 とはいえ一応解決を見た困難は尾を引き、状況の変化もあって会発足後もさまざまな議論や葛藤が生れ、会は揺れ動いて来た。例えば、1957 年「美術運動」(第52 号)に載った座談会での桂川寛の発言。——「われわれの仕事は政治とちがって直接的な目的についての妥協ということはない。だから完全に同一の創作方法によって集まるのでなければ統一的な芸術運動ということにはならない。」 これは「党派流派を超え」、創作方法の一致を求めず、多様な方法を認める日本美術会のあり方と真っ向から対立する意見ではある。 あるいは民主的美術運動そのものの「困難」を指摘する意見も出されていた。やはり1957年の「美術運動」(第53号)で、針生一郎は次のように述べている。「日本美術会が多種多様な方法、立場、思想にたつ多くの作家を抱えている現状は、芸術運動体としてきわめて困難な条件だ。」この発言がなされた1957 年当時の会内外の状況を考慮することなしにはその真意はとらえられないだろうが、いずれにしても「多様な方法、立場、思想」を超えた結集そのものが芸術運動体にとってのきわめて「困難な条件」になっていると言われているのである。日本美術会はこのような「困難」を乗り越えて今日に至っているといえば言えよう。しかし私たちはこのような議論を含めて、検討し検証すべき問題を過去に残したままになっていることも確かである。

(2)運動体としての基盤の確立——多様性から多元性、そして多元主義へ

 1960 年代半ば以降、日本美術会は50 年代における混乱や組織的弱体を乗り越え、60 年安保闘争後の「挫折感」を背景とする危機や1962 年のソビエトでの現代日本美術展をめぐる会の存立を脅かすような混乱を乗り切って、美術運動体としての基盤をようやく固めるに至ったとみられる。それは、66 年における念願の美術センター(新橋)の設立や附属美術研究所の開設によってもうかがい知ることが出来る。またそれに先立つ64 年末に地方代表者会議が開かれているが、これは各地に自主的に生まれている各様の民主的な美術グループや展覧会との交流と連携を強め、それらの結集をはかり、各地に根を張った全国的美術運動の展開を展望するものであった。
 60 年代といえば、いわゆる高度成長の時代に当たり、急速な生産力の発達、経済成長第一主義と大量生産・大量消費の時代への突入により、労働と生活の様相は一変し、都市景観の急変とともに開発による地方景観の変化と画一化も進んだ。それは視覚的世界の変化だけでなく、人間にとっての生産や自然の意味の変化をももたらしたと言えるだろう。このような大きな変化にたいして当然美術家も対応を迫られることになった。みずからの感性の問い直し、テーマやモチーフの拡大や選び直し、さらには表現方法そのものの革新など。その対応はさまざまあり得ようが、私の記憶では、60 年代末か70 年代に入ってから、会内でたびたび「表現の多様化」と言われているのを耳にしている。この「表現の多様化」とは、全体として見れば(もちろん個人差はあるが)、この大きな時代的変化へのドラスティックな応答と言うよりも、ゆるやかな(「着実な」)対応であったように見える(当時の会内では「着実な前進」という言葉もたびたび聞かれた)。もともとこの「表現の多様化」とは、モダニズム芸術への過度の警戒やゴリスティックな否定、リアリズムそのものに対する狭い理解、テーマ主義や題材主義などからの脱却を目指すものだったろう。しかし今振り返ってみると、それは60 年代に始まる大きな時代的変化へのゆるやかな対応と重なっていたと解される。
 この70 年代における多様化の追求は、全体としては従来通りのリアリズム対モダニズムというそれまでの対立軸の上でなされていたことは、「美術運動」の誌面からもうかがえる(例えば、1977 年の104 号と105 号は〈リアリズムとモダニズム〉の特集を組んでいる)。しかしやがてそれは質的変化を被ることになる。一言でいえば多様化から多元化への変化であり、それは日本美術会では80 年代なかばに顕在化している。 1985 年の「美術運動」(No.112 1985.2)に載った長田謙一×秀村英史の往復書簡において、日本美術会ではおそらく初めて「多元主義」への同調が語られている。秀村・長田両氏の多元主義の提起は内容的には相対立してさえしているが、いずれにしても多元主義への言及がこの時点でなされていることは、一つの画期として注目される。一方同年の「美術運動」の次号(No.113 1985.7)には、「デイヴィッド・ナッシュ ノート」(北野輝)が掲載されており、その翌年の「美術運動」(No.114 1986.2)には「クリストと現代美術」(森芳功)の寄稿がある。ナッシュやクリストなど「表現の多様化」ではくくれきれないジャンル越境的な同時代芸術への関心と視野拡大が進んでいたことが知られる。
 このような新たな動向にあたかも触発されたかのように、1987 年には、日本美術会の創立会員で当時70 歳を越えていた永井潔から、「日本美術会の諸君がしばしば口にする『アンデパンダン精神』という言葉には、イタリーの文化運動『アルチ』のいうプルラリスタ(多元主義)と一脈通じ合うニュアンスがあるように私は感じている」との発言がなされている(初出・永井潔「あの頃のこと今のこと」(3)、「美術運動」No.116 1987.2、後に『あの頃のこと今のこと』所収)。ここで言われている「多元主義」は、「表現の多元化」に限定されるものではなく、日本美術会の組織と運動、そしてそれらを貫く精神(「アンデパンダン精神」)にかかわるものである。 1989 年の第42 回日本アンデパンダン展から、日本美術会は従来の絵画や彫刻といったジャンル枠を超えたインスタレーションやパフォーマンスなどに門戸を開くことになる。表現の多様化の追求から多元化の積極的な承認(多元主義)へと踏み出したことになるだろう。大局的に見れば、それは世界的規模で進んでいた多元化と多元主義の流れにはからずも——遅まきながら——呼応するものだったと言えよう。多様な民族、人種、マイノリティーなど、彼ら/彼女らの生活・文化の価値を認め、共存をはかるこの流れについてここでは深入りできないが、その中でボーダーレスな展開を見せた現代美術の世界において多元化と多元主義が最も進んでいたのであり、「何でもあり」の混沌状態を呈するまでになっていたことには注目しておきたい。しかしわが会が踏み出した多元主義は、ポストモダンの旗手リオタール(仏)の言う「大きな物語[例えばマルクス主義]の終焉」後の「多元主義」(『ポストモダンの条件』1979 年)や現代美術の「何でもあり」をそのまま肯定するダントー(米)の言う「客観的多元主義」(「美術史の終焉後の美術」1994 年)とは異なり、無方向なたんなる相対主義ではなく、民主的方向(民主主義的指向性)を持ったものだったろう。それは日本美術会への結集が特定の創作方法での一致を求めずにはかられた時、その創作方法の自由が「民主的」という方向付けを持っていた伝統につながっている。しかし、美術表現において何が民主的かが一義的に明らかなわけではない上、表現上のどんな選択も許される美術状況の中で、美術家たちは自らの芸術的立場や表現方法を批判的に問い模索し確立してゆくことをあらためて迫られるようにもなったのである。
 ここで話は戻るが、60 年代半ば以降に確立される日本美術会の運動基盤は、草創期の多元的な結集とは異なる新たな組織編成によることについて一瞥しておきたい。草創期の多元性は、初めに見たように、プロ美系、反官展在野系、人民戦線系など出自の違いや、リアリズム系、シュール系、抽象系など創作方法の違いなどを持つ美術家たちの結集したそれであった(50 年代には、「青年美術家連合」を結成した若い世代などもそれに加わっている)。しかし、こうした形での多元性はその後の推移の中で薄められて行ったことは否定できまい。美術界の再編成、会自身の分裂の危機や混乱などにより、60 年代初めまでに少なくないメンバーが去って行ったからである(その詳しい経緯や原因を現在の私たちは知らないままで過ごしている)。
 これに対して1960 年代半ば以降における美術運動体の確立は、会草創期におけるような多元的結集の上にではなく、全国的な革新勢力の伸長を背景とした会員の新たな編成替えとともに進んだとみられる。健在する創立以来の作家に加えて、各地に生まれている民主的傾向を持つ美術グループや作家の結集が進み、さらに美術系大学の卒業生や民美の修了生など若手も加わって、日本美術会は、ベテラン、中堅、若手による構成体、しかも各地方に根を張った全国的運動としての体を成すことになったとみられるのである。そして「表現の多様化」の追求も、このような編成替えされた基盤の上で進み、80 年代の多元化への転換も主としてこの基盤に立った美術家(特に若手)たちの成長と社会的・美術的状況の変化への対応として成されえたのであろう。
(3)日本美術会の現地点、とりわけ3.11 以後
 1987 年に、「アンデパンダン精神」という言葉にはイタリアの文化運動「アルチ」のいうプルラリスタ(多元主義)と一脈通じ合うニュアンスがある、と指摘していた永井潔は、2006 年に、この「多元主義」をより包括的に「中核規定を持たない多元主義的連帯」ととらえるに至る(90歳記念展レセプションでの挨拶、および『あの頃のこと、今のこと』「あとがき」)。これは永井が、2004 年に発足した九条の会の運動が各地の市民と各分野に自主的・多元的に広がっていったことに鼓舞されて、日本美術会創立の精神を受け継ぎ発展的にとらえ直したものだと解される。すでに見たように、多元的な動きや発想を一つに結集した会は、「党派流派をこえた大結集」を目指したこと、創作方法での一致を求めなかったこと、そして中核規定を持たず徹底した対等平等の連帯を目指したことに特色を持っていた。それらを発展的に包括した「中核規定を持たない多元主義的連帯」の原則は、紆余曲折を経て十分とは言えないながら、会の組織と運動とアンデパンダン展に体現されて来たと言えようし、これからも発展的に追求されて行くべき「理念」となるものだろう。 ここで注目しておきたいことは、永井潔によるこの原則規定が会内外の美術家たちの表現の多元化に呼応しているばかりでなく、九条の会の自主的・自発的な市民運動の全国的な展開に鼓舞されて形成されているとみられることである(永井自身、九条の会に触れている)。そしてその市民運動との共振は、永井亡き後の3.11 後に鮮明になるのである。
 確かに永井潔による「中核規定を持たない多元主義的連帯」とは硬い(若い人たちにとっては馴染みにくい)表現だが、その心は、「いろんな考えを持っている人が一つのことで力を合わせることは良いことです」(福島県のある町の元町議会議長佐藤修一氏の言)というやさしい言葉と通じ合っている。何よりも個々人の自主性・自発性に基づく参加、対等平等の原則、思想・信条・立場を超えた連帯・共同(違いを認め尊重し合う=「リスペクト」し合う)、等。3.11 以後、脱原発、秘密保護法反対から戦争法反対へと展開されて来た自主的・自発的な市民運動は、民主的美術運動(文化運動)と新たな市民運動(社会的・政治的運動)の違いを超えた原理的な共通性を浮かび上がらせてくれた。昨年7 月の参院選での主権者主導の野党共闘を「市民革命」と評価する見解も出されており、少なくともそこに主権者の自発性に基づく真の民主主義を確立する歴史的契機を見いだすことは出来るだろう。実は永井潔はそれに先立ち(1987 年)、創立に当って日本美術会が採った「中核規定を持たない」運動形態は——それが適切に活かされれば、との条件付きながら ——「文化運動がほんとうの意味で啓蒙主義を乗り越えて一つの大衆的自発性を確立する歴史的契機になりうる」(『あの頃のこと、今のこと』)との展望を示していた。この運動形態は、「何が正しいか、皆で一緒に探しましょう」(永井)とやさしく言い換えられるが、それは上に引いた「いろんな考えを持っている人が一つのことで力を合わせることは良いことです」(佐藤)という言葉とともに、美術運動(文化運動)と市民運動(政治運動)の違いを超えた共通の精神を言い表していると言ってよいだろう。こうした自主的・自発的な市民運動の展開は、美術家と美術運動の立ち位置の新たな自覚化を促すことになっている。例えば近代のアポリア(難問)といえる芸術家の「自律/自立」も、市民と共通の「人権(個人の尊厳)」と「主権」のレベルにおいてとらえ直されることだろう。
 美術運動が市民革命と歩みをともにする時代の到来⁉だがそれは、各地の各分野で表現の自由への圧迫が進み、日本が「戦争する国づくり」へと転じ、立憲主義、民主主義、平和主義が根底から脅かされている危機に呼び覚まされたものだ。創立70 周年を迎えた日本美術会が立っている現地点では、戦後最大の危機とそれに抗する新たな希望の芽吹きがせめぎ合っている。この危機にたいして、私たちは表現の自由を守り発揮し、美術家同士と市民の「多元主義的連帯」の拡大と適切有効な機能化によって立ち向かう以外にはないだろう。
 最後に、創作活動の発展と「中核規定を持たない多元主義的連帯」との関係について一言だけ補足しておきたい。それは創作活動の発展(「新しい価値の創造」、現行『日本美術会趣旨』)を自己目的としている美術運動と社会的・政治的運動との相対的な違いにもかかわっている。創作活動における「非妥協性」と追求の「無限性」は、本来「他者との連帯」に馴染まないのではないか、との危惧もないではない。しかし「多元主義的連帯」は、それぞれの自主性・自発性・創造性を尊重し前提とするから「多元主義的」「連帯」なのである。異質な表現、価値、価値観の他者性を尊重した共存・共同は本来、創作活動を活性化し発展させるだけでなく、参加者それぞれの芸術的・人間的な成長(自立性)をも促すだろう。しかしそれはあくまでも「原則」にとどまる。日本美術会と日本アンデパンダン展がどれだけあるべき「多元主義的連帯」の場となっているか、絶えざる自己点検と創意工夫と努力が求められているのである。

戦後日本は、もっとも惨酷な悲劇となったアジア・太平洋戦争に抵抗した人たちの記憶をどのように刻みこんできたのか? 王政に抗する市民革命を遂行した経験が弱い日本では、国賊とか非国民と指弾されて獄中に斃れた犠牲者たちに、後世の者が想いを寄せて敬意をはらうことが少なく、むしろ歴史の後知恵による批判さえくわえてきた。戦争とファッシズムに真っ向から対峙し、戦後美術運動を立ちあげてきた美術家たちが次々と世を去り、血で贖った経験をオーラルな記憶として継承する最後の時間が過ぎていくなかで、耳を澄ませて彼らの声を聴きとって次世代に伝えねばならないと切に思う。
●国家総力戦体制と美術家の選択
 ある時代の帰趨は、すべての人の選択の集積の総和として決定されていくのであり、欧米の白人支配からアジアを解放するという虚構の「大東亜共栄圏」も複数の価値観の一つでしかなく、平和の共同体をめざす別の可能性もあった。なぜ、私たちの父祖は戦争の道を選んで、平和の道を選べなかったのか? 総力戦体制をめざす国家は、世界史上もっとも野蛮な治安立法によって抵抗運動を抑圧し、画家たちを一元的に統制する「美術報国会」を組織し、協力しなければ画材を断つ脅迫をくわえ、天皇に殉死する聖戦美術体制を構築した。剥きだしの国家暴力に直面した美術家たちは、芸術の自律性をめぐる極限状況にあって最後の選択を迫られ、多くの者が虚構の聖戦美術に参入していった。その背後には、国家を批判的に相対化する視点を形成しえなかった日本近代美術の限界があり、現代においても払拭されていない(文化芸術懇話会の「政策芸術論」に協力する芸術家たち)。
 滞欧経験のある在野系の美術家たちは、「国家社会主義」の「革新」性に期待して画壇を改革する幻想を抱き、一部は権力への反動形成にのめりこむ現代アメリカのネオコンのような痛ましい事態におちいった。インドシナ文化大使となって文化工作をになった陸軍美術協会理事長・藤田嗣治は、当時のインドシナ共産党から「日本ファッシストのくびきの下でのベトナム文化の危機をもたらす大東亜主義を宣伝する、日本人は黄色人種の救世主であり、日本文化は大東亜の各人種のために先進的文明として輝いているなどの観念をつくりだす」(「ベトナム文化綱領」)と指弾されながら、大東亜共栄圏の聖戦美術を主導した。
 新進気鋭の青年美術家は、「もはや自由主義的世界観は崩壊したのである。功なり名遂げた老大家達によって組織される帝国美術院などあってなきが如くで、今日非常時局に何ら積極的な意義は見出せない。これからの美術家は政府の指令に従って彩管を以て滅私奉公しなければならない」(難波田龍起『美之國』16−9、1940年)と述べ、聖戦美術体制を無鑑査制を打破して美術界を一新し、美術家の生活を保障するチャンスととらえた。人民戦線の一翼とみなされて抑圧されたシュールレアリズム系の画家は、「戦争画は戦争の真実を伝へられない限り、徒なる勧善懲悪主義の宣伝教育画に堕す。大東亜戦争の理念表現としての戦争画は、相当豊富な構想と表現とによって描かねばならない。兵器は現代科学の粋であり、形態美と機能が完全に一致した点で最も好ましいものだ」(福沢一郎『新美術』1942年7月)とし、国策に協力する前衛芸術へ転換した。
 中堅の美術家たちも、「平和に慣れ過ぎて乱を忘れ、挙国一致の生活的連帯性を忘却した時代の罪であり、今がそれが清算されるべき絶好の機会である。(中略)新体制とは一切の生活機能が日本国家理念の上に、正しく、強く、その本質として生きることだ」(内田巌『アトリエ』7−11、1940年)と新体制とむすぶ表現への転換を訴え、本郷新は「創造の自由、喜びといふものが即ち国家の目標に結びつく、此の時代を1つのチャンスとして伸して行くことが必要だと思ふ」(『造形芸術』1941年2月)とし、「神格化された忠霊といふ日本的象徴観念を具象化する」(『新美術』1942年8月)新しい造形を主張した。
 縁辺にあった女性美術家たちも、女性作家の社会的な認知と家父長制からの解放を求めて聖戦美術に献身したが、彼女らの描画は軍隊に志願する少年や戦う兵士をささえる銃後のイメージとなって、良妻賢母のジェンダー規範から逃れえなかった(長谷川春子他≪大東亜戦皇国婦女皆働之図≫1944年)。多くの美術家たちを戦争の共犯者となるまでに追いつめた天皇制ファッシズムの死の美学を凝視し、そのプロセスを解明して学習しなければ、後世は違った形で再び同じ過ちを繰り返すことになる。
●抵抗の美術運動
 聖戦体制の虚構をみぬくには、明治以降の日本の近代を相対化する認識が求められ、少なくない美術家たちが抵抗の道を選び、プロレタリア美術運動は貧困の世界を解き明かす新しいリテラシーによって、ヒューマンで豊かな民主共和制の世界を示す本格的な異議申立運動となって大きな影響を及ぼし、1930年の東京美術学校西洋画科の卒業制作の約半分が労働者を主題とし、1932年のプロレタリア美術家同盟員数は175名にのぼった。
 人間の尊厳を恢復する渾身の力をこめたリアルな表現によって、観照的な唯美の世界に衝撃を与え、民衆の生活とむすぶ「移動展」や文工隊の似顔絵活動は、今日の社会参与芸術(ソーシャル・エンゲイジド・アート、SEA)の先駆となり、戦後韓国の民族民衆美術運動や現代日本のサウンド・デモやストリート系アートの源流となり、工場と農村を中心にくりひろげたサークル運動は初めての民衆の自己表現運動となって、戦後の職場美術運動に受けつがれた。プロレタリア女性美術運動は、前近代的な女性像から抜けだし、自立して生きぬく新しい女性美術の地平を切り開き(大村かねよ≪野良≫1933年、川上律子(*川上貫一の娘)≪面会≫1935年)、新井光子は児童を成人から独立した独自の存在とみなす画期的な児童絵画運動を展開した(『児童絵画論』1931年、内外社)。
 大衆運動とむすぶ宣伝活動は、ハイ・アートが無視してきた広告宣伝の分野に、資本から自立した理念と技術をもちこんで応用芸術の発展をもたらし、プロレタリア漫画はモダン技法とリアリテイを組み合わせた斬新な風刺の世界をひらいて漫画界をリードし、植民地中国の抗日文化運動に大きな影響を与え、魯迅の指導する上海漫画集団は柳瀬正夢を” 世界的な左翼風刺画家” と呼んだ。こうした作品の多くが消失して閲覧が困難となっているのは、非合法の活動で作品の保全が困難となり、空襲や疎開によって焼失し、特高が押収した作品は敗戦で焼却処分され、さらに占領軍が押収して持ち帰ったことにあり、後世は埋もれていった作品を発掘して光をあてる責務がある。
●戦時抵抗と転向
戦時抵抗は、逃げなければ殺される命がけのものであり、捕らえられた者の選択肢は非転向の獄死か発狂、転向か偽装転向、逆転向しかなく、少なからぬ者が良心を守って獄中に散った(獄死者数1、617人、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟資料)。河上肇の影響を受けてプロレタリア美術運動に同伴した津田青楓は、小林多喜二の虐殺を主題とする≪犠牲者の拷問≫(1933年)を制作中に検挙され、苛烈な取り調べのはてに理論偏重の運動を批判して日本画へ転向していった(『老畫家の一生』中央公論美術社、1963年)。
 不幸にして転向した者にたいし、「転向作家は、転向するよりも転向しないで、小林(*多喜二)の如く死ぬべきであった」(板垣直子「文学の新動向」)などと裁断する者は、権力と対峙する葛藤にたいする無知を示している。では、戦術的に戦争画を描いた画家たちをどう評価すべきか。古沢岩美は敵か味方か分からないダブルミーニングで描き(≪海ゆかば≫≪山ゆかば≫1942年)、糸園和三郎は時代への心象批評をこめ(≪犬のいる風景≫1941年)、井上長三郎は日本軍の敗北を暗喩的に描いた(≪漂流≫1943年)。
 文化運動の弾圧を指揮した当時の最高検公判部長は、「芸術は理屈抜きに人の感情に訴えて、見る者の心を動かして、蜘蛛の糸の如く組織なき組織を形成する。いったん潜入した感情は、これを抜くことは極めて困難であり、その特性に根を置く文化運動の持続性は恐るべきものがある。政治や経済闘争は組織を壊滅させれば終わるが、文化運動は組織を破壊しても、根は地下深く潜行して根絶は容易でない」(平出禾( ひいず)『司法研究』28ー9、1940年)と述べたが、戦争批判の暗喩をこめた作品にはそうした心性が滲みでており、軍部は会場から撤去した。
●プロレタリア美術運動から何を汲みとるか?
 プロレタリア美術運動は、苛烈な弾圧をうけてしだいに尖鋭な政治性を帯び、「芸術運動は、従来の原始的多元的な芸術運動の埓内から全面的、一元的な政治闘争へ転換すべきである」と主張する福本イズムの影響を受け、抵抗運動のビジュアル・デザインをになうアジ・プロ活動へ傾斜していった。
 美術運動の理論活動は、文芸ジャンルの蔵原惟人や中野重治が主導する芸術理論に依拠し、旧ソ連の政治の優位性のテーゼとむすぶ革命芸術論を機械的に適用する主題主義におちいり、反ファッシズムを反資本主義とみなす前衛的な意識注入論によって、投獄を覚悟する強烈な政治的メッセージをこめた表現をうちだした。ダイレクトな告発の表現が直線的に実践運動の武器となる輝かしい時代の感性を示したが、あるイメージの効果をあらかじめ設定して望ましい感性が生まれでることを期待する「目的芸術」は垂直的な啓蒙性をおび、かえって現実の本質から離れていった。「ブルジョア美術の形式に反抗することのみ、アジ・プロのための迅速な絵画のみがプロレタリア美術であるという誤謬」(村山知義、1928年)から抜けだそうとする試みは、日本の現実にマッチした独自の理論をつくりだす前に解体に追い込まれた。
 帝展や一般公募展ときりむすんで画壇の民主化をめざすよりも、それを全否定する急進的な方向へ展開し、山本鼎の「農村美術運動」やアンデパンダン共同戦線をめざした竹内久七の「リアン運動」、二科会の社会派(新海覚雄)、帝展系の同伴者作家(前田寛治)、シュールレアリズム系の美術文化協会、「人間としての最低限の自己主張をしたい。死ぬのであれば、描きながら死にたい」(麻生三郎)とした新人画会など、ファッシズムに抗する広範な美術家たちとの連携は進まなかった。欧米の抵抗運動は、社会ファッシズム論を克服して、「神を信じる者も信じない者」もともに手をむすぶ反ファッショ人民戦線運動へ展開したが、日本の抵抗運動は欧米をはるかにこえるアジア的な野蛮のなかで焦燥感を帯びて先鋭化し、広範な反ファッショの対抗軸を構築する前に挫折した。
 抵抗の過程で斃れていった気高い感性を決して清算してはならず、彼らは変革運動のただなかを試行錯誤を重ねながら生き抜いて挫折したのであり、彼らが遺していった遺産にある確かな果実を受けつぎ、彼らの初発にあった希望の源泉に立ち返って、現在のなかに置き換えることが求められる。プロレタリア美術運動は、苛烈な時代の網の目から紡ぎだされた苦闘の産物であり、時代の傍観者となることを峻拒した証しによって、日本の近代美術の汚点はわずかに救われており、彼らの運動なしに新しい戦後美術の出発はありえなかった。失敗や誤謬をともなわない完全無欠な運動はありえず、どのように正しい方針であろうとも、最終的には力関係で決まるのであり、歴史の後知恵による超越的な評価に生産性はない。彼らの志がなぜ実現しなかったのか、そこに刻みこまれた失敗をふくめて具体的に明らかにし、異なった条件にある今日にあって、なにを汲みとり、どう生かすかが問われる。
●廃墟から蘇った希望の芸術
 敗戦の廃墟のなかから、戦争芸術の悲劇を二度とくり返さないという誓約を実体化し、流派をこえて自発的に結集した日本美術会の歴史的な意味は大きい。日本美術会は、画家たちの戦争責任をどう決済しようとしたのか。狂信的な超国家主義に走って聖戦美術を主導した一部の美術家を除き、第一義的な責任は表現の自由を奪った天皇制ファッシズムに帰せられ、美術家の戦争協力にたいする責任追及は、「忘れず許さず」という復讐をこえて、「忘れず裁く」から「許すが忘れない」という崇高なレベルへ至るが、それは真摯な内省なしに成立しない。
 日本美術会は、「許すが忘れない」という罪責論を選択し、「戦争画家を排除するものではない。だが、戦争画家ははじめに自己批判したうえで加盟すべきだ」(永井潔)とし、「美術家の戦争責任の追求は、政治問題ではなく、美の問題として究明する」(創立総会決議)と位置づけ、戦犯リストを提出してGHQの審判を仰ぐのではなく、聖戦美術の「汚辱の歴史の究明とその自己批判を徹底化する」(『日本美術会会報』4号)方向へふみだした。
 「絵描きは絵描きである前にまず人間でありたい」(内田巌)として歩みだした日本美術会は、特陳≪戦争犠牲美術家の遺作≫(靉光、柳瀬正夢、川上律絵など149点、第2回アンデパンダン展、1948年)によって抵抗の志しを引き継ぎ、人間の尊厳をまもる表現を貫ぬく数々の秀作を生みだし(鶴岡政男≪重い手≫1951年、山下菊二≪オト・テム≫1951年、新海覚雄≪構内デモ≫1955年)、本郷新の≪わだつみのこえ≫像(1950年)は東京大学構内への建立を拒否されて立命館大学に設置され、1969年の大学紛争時に急進派の学生によって破壊されたが、翌年に再建されて現在にいたっている。日本全国に地鳴りのようにわき起こった戦後の美術運動は、各地の平和美術展や全国職美協の職場美術展、地域アンデパンダン展、さらに「9条美術の会」など、地域に埋めこまれた多彩な展開を示し、日本美術会は一定の役割をはたしてきた。
●戦後70年をへて
 戦後日本の歩みのなかで、戦争の罪責を問う作業は未完に終わり、過去の罪責を忌避する靖国史観があらわれるなかで、南京の巨石を取り寄せて制作された「紀元2600年」記念のモニュメント≪八紘之基柱( あめつちのもとはしら) ≫(日名子実三、1940年)は、「八紘一宇」の文字を削除して≪平和の塔≫と改称して存置され、1965年に文字が復元されて今も聳え立っている(2015年に中国から石の返還を要求され、日本側は拒否した)。睨みあうように屹立している≪わだつみのこえ≫と≪八紘之基柱≫は、戦後責任をめぐる相剋を象徴的に示している。アジア・太平洋戦争で犠牲となったアジア人2000万人と日本人310万人(含む朝鮮人)の魂は、今もなお怨嗟の呻きをあげてさ迷っており、旧西独の首相がワルシャワの大地にひざまづいて赦しを乞うたように、日本の首相が南京の大地に頭を垂れてひざまづくまで、日本の戦後が終わることはない。
 今日の美術界は、流派をこえた自由闊達な交流や熱い論争が姿を消し、大正モダンの時代と同じように明るくポップなモダン・アートが咲きほこっており、傷つき痛んでいく格差と貧困のなかで、再び新しい戦前が姿をあらわしている。こうした動向に対峙する表現は、かっての階級還元的な表現から、プレカリアートやマイノリテイ、ジェンダー、核やエコロジーなど多様に交錯する表現へ展開し、現代のリアリズムは特定の流派的な表現様式から、対象の本質にせまるアプローチへ転換し、その内容は抽象やファンタジーをふくむ自由で多彩な表現へむかっている。具象や抽象、ファンタジー、魔術的リアリズムであれ陰惨な暴力リアリズムであれ、対象の本質に迫って形象化する限り、すべてリアリズムであり、不条理芸術をデカダンスとして否定するのではなく、そこにある歪みを人間疎外の深奥を探る表現として凝視し、奪われ失われていく協同を恢復する方向を探らねばならない。現代のリアリズムの可能性は、異なる多様な表現様式がたがいに交響しあうなかで、リアリテイの内実がたがいに試される過程にある。
 日本美術会は、21世紀の多元的な文化運動の先駆となる「中核規定を持たない多元的連帯」(永井潔)という会派をこえた運動体として出発し、「日本美術の自由で民主的な発展とその新しい価値の創造」(「趣旨」)をめざし、さまざまの困難をのりこえて歩んできた。いま、現実に深化する危機のなかで、意識すると否とにかかわらず、日本美術会の本旨が再び新鮮なイメージをもってよみがえり、本格的に試されるダイナミックな時代を迎えている。

近年の日本アンデパンダン展について
 先ず、発足から70 年間に亘り、美術の民主的な発展とその新しい価値の創造を目的とし、真に人間的な美術を生み出す努力を継続し、平和を願って運動してきた会の活動は客観的にも大いに評価できると思う。その間色々な困難や課題をのり越えてきた、この継続、粘り強さが人間的にも運動的にも肝要である。組織は一旦絶えると復活には大変な努力を要するからである。その意味で、会の趣旨沿った運動の拠点として、日本美術会は讃えられる。そして会の運営やアンデパンダン展の組織の役員の努力には頭が下がる。芸術の目標も人間生活の進歩と幸福である。その観点で社会とその美術をより良いものに進める、民主的な組織の大切さがこの会には存続されている。
 一般の公募展と較べて日本アンデパンダン展は確かに異なった雰囲気である。毎年《時代の表現−−生きる証》が着実に表されている。そこには個人的生活感だけでなく、今日の社会、政治に関心を持つことが当然なこととして表れている。こうしたテーマを他の美術展が過少視して、主として個人の域内に留まった感性やただ技術的展開に終始するのと対照的に、人間として社会的関心は当たり前のことであり、その感性がアンデパンダン展に満ち溢れて良い。これは同展での標語や方式がいかに大切であるかを示し、それが日本美術会の精神や性格にも基づいていることを改めて実感する。そこでは、誠実に現実認識と表現という芸術本来の機能が果たされている。
 地方在住であまり手伝えず、また美術家でもない私は、組織運営とそこに集まる会員や出品者に応援団のような気持ちで激励して、その展評ではほとんど批判をしていない。むしろ可能性を伸してほしい芽を拾って、取り上げてきた。無論アンデパンダン展の性質上、技術や質が高くない出品がある。その作者はそれを自覚しながら、自分の作品を受け入れてくれるこの展覧会で、優れた制作に接して勉強する。多様な美術、技法、感性、表現を見て、足が地に着いた発表に学ぶことは多い。彼らの作品は、表現が未熟でも実感がこもっている。プロの作家でもこれらから学ぶところもあろう。テクニックよりも気持ちが伝わる画面群や何とか感情・感慨を伝えようとする表現が、てらわない国民的な感性を尊重するのがアンデパンダン展らしいと思った。また無論プロ的な作家の秀作があちこちで存在感を見せていた。それらは長い修練の到達であり、アンデパンダン展をリードしている。アマチュアの魅力もあるが、専門家がなければ美術の進歩もない。専門家の制作と活動には敬意を表するとともに、いっそう競い合ってほしい。要するにアンデパンダン展は浮ついていない美術的大フォーラムだと思う。
テーマと表現
 アンデパンダン展では生命をテーマにするものも多く、それぞれ愛情が感じられる。生命(ライフ)は生活でもあり、生活の情景描写にもつながる。しかし生活とは、あまりに当たり前なテーマともいえるから、生活情景の描写を批評に取り上げるときは、特にその理由を挙げるべきだろうが、ことさら理由を省いても、見て感銘を受けるから説明しなくて良いと思われる作品もあった。展示された大小の作品からは、それぞれの作者のこめられた思いがひしひしと伝わってきた。でも肝要なのは、今日生きる人が制作すれば何らかの意味で必ず「時代の表現、生きる証」となるから、問題はそれがどれほどリアルで美術的で、どのような切り口でどれほど正鵠を得て人々に訴えたり共感を与えるかであろう。この点で展評を書くにあたって、特に批評したい作品を見出すのにやや手間がかかった。美術を専門的に手がける作家の作品の水準は当然高く、批評は感心してほめることになる。でも一般に会員の出品には、日本美術会の趣旨を念頭においた気合いをもうすこし求めたい気持ちがいつもあった。
 会場で造形的または美術的に魅了する作品は必ずしも多くはないが、反原発や平和希求や沖縄基地反対などの意を表明するかなりの作品が、従来の美術形式では満足できず新たな表現を取ろうとしている。だからインスタレーションのコーナーには、この意欲の展示が集まってきている。そして工夫ある作品も増えてきていると思う。しかし社会的テーマにはインスタレーションだけが向いているわけでもないだろう。インスタレーションに関しては、応援したい気持ちが湧くが、パフォーマンスで補うにしてもプレゼンテーションがやや安易に思えた。いくつものインスタレーションは、絵画などよりも広いスペースを占めるが、表現が直裁過ぎてアートとしての工夫が足りないと思われた。
 美術は、内容と形式から評価される。造形的・技術的に卓越した作品は、他の美術展などあちこちにあるが、内容からの訴えの感度が乏しいものは、美術的にもそれほど優れていないと言えるのではないだろうか?とはいえ技術の修練の成果は形象となるから、技術を磨くことはより良い形象を作り出すのに肝心であることは、誰にでも分かっていることだ。真摯な制作には、技術の向上が言わずもがな含まれる。だからアンデパンダン展の批評では、技術の上達を目指す必要をことさら指摘はしないが、やはり表現技術のレベルアップを望みたい出品も多い。しかし高い技術の作品がただちに美術形象の価値が高いわけではない。美術形象はやはり内容が主導して出来上がるのが良い。美術の内容には、表層的な内容から奥の内容までレベルがある。例えばゴッホの描いた靴は、くたびれた靴の形象だが、それを超えた深い感銘を与える。芸術は仮象を用いて奥深い真実を表し出せる。傑作と言われる美術にあるものは、人間的な真実を顕しているとも言われ、偽りを剥いだ真実を開示し、心に触れさせるのは質の高い美術の性質だ。価値ある美術とは、表面的な形を超えて核心的な意味内容として真実を、感性を揺るがすように把握させる形式を持つものだ。そうした美術は、特に意義を感じさる。我々が求める美術は、このような深い真実や意義を伝える形象だ。美術はこうした伝達、メッセージ性を持っている。
日本美術会員への期待
 ともあれ私の展評は、毎年何かねぎらうような文しか書いていないと思う。そこで2016 年のアンデパンダン展の北野輝氏の評を見て、同感することを記したい。北野氏は同展の歴史を要点的に振り返り、特に第30 回展について匠秀夫氏の行った指摘、「30 年の年輪の厚みを祝賀してはいられない情況の方が目につく」、すなわちアマチュアリズム、社会的テーマ性とリアリズムの主張が単なる写生的な描写画にとどまるか通俗的な概念主義に陥っているとの、痛烈な批判である。そして北野氏は、「それから40 年経った現行のアンデパンダン展について、私たちはこのような批判を克服できているか」を点検する必要があると述べている。
 私は昨年理論部の研究会で、「現代日本の課題に応える美術の創造」と題した発表をした。これはやや要約されて、『美術運動』143 号にも掲載された。この題名の重大さに対して、私の見解や提案は充分に対応しているとは言えないが、若干の視点を示した。その幾つかをあらためて記し、コメントを付加しておきたい。
 今日、美術には技術的、領域的、性質的な多様化が見られ、これは従来の表現方法では表しきれないテーマや感性への対処とも見られる。確かに量的には美術分野は拡大した。しかし美術の質的向上は自動的ではなく、専門的で理想を目指した人の活動が必要だ。美術の専門家とは職業ではなく、その専門的探求者のことであり、そうした人が向上をリードすることが大切だ。そして多様を尊重しながら多元的に進歩を探求する方向が、自由な展開で民主的な探求だと思う。自由と言ったが、実際には政治的や風紀的に有害とされるものには規制がかけられる。また美術館などでは制度的な規制もある。だから自由とは戦い取らねばならない。
 美術は自覚していなくても、純粋美術も含めて何らかの目的に何らかの仕方で良きにつけ悪しきにつけ役立っている。だから問題は、何のためか、何に役立つのか、誰のためかということだ。一般的に言えることは、特定の目的のための美術も、それが人間の普遍的な目的につながっている時には、高い評価を得て、優れた芸術性があるとされる。だから我々が目指したいのは、芸術外の目的に思えても、社会的・人間的な目的があるわけだから、その目的を芸術的に消化すること。そのためには、目的に対し想像力、創造力を十分に発揮させたいし、自由な表現の範囲を広く見渡したい。過去のテーマ美術の表現は、我々に参考になるし今後も参考になり続けるだろう。そして喫緊な日本の危機には、戦争の悲惨さ、マイナス/否定面を表して、それ否定する気持ち、いわば禍を転じてプラスに導く形象は当然ある。しかし今日の若者などには少し異なった表現も必要だろう。各地で平和美術展があり様々な作品が寄せられ、ここには穏やかな作品や明るく楽しい作品も多くある。楽しいのはとても良い。芸術や美術には、楽しさの魅力が必要だ。すべての美術にこの性格を求めるのではないが、快楽は芸術の一の要因である。現代アートには、明るく楽しく気楽な作品もある。また社会的関心をテーマにしたものがかなり多くある。現代アートは資本主義の文化に包摂され、取り込まれているのは確かだが、我々は現在に生きる者として、同じく現代に生きているアーティストたちの特に現代美術と言われるもの評価の意見交換や議論は大切だ。
現在の最重要な課題
 日本美術会のメンバーの意識すべき現在の最重要な課題とは、危機に曝されている反戦平和であり、戦争法案反対・廃止、憲法改悪反対が喫緊な課題だ。政府がそれらの危険を懸命に隠蔽している今では、これが差し迫った課題だ。日本美術会以外で、「反戦 来るべき戦争に 抗うために」というような展覧会もある。日本美術会には、今はいろいろなテーマに総花的に対応するのでは無く、喫緊のテーマに意識を集中的した制作を望みたい。今日の政府の虚偽を告発する美術は、社会的に求められるだけでなく、美術的にも新しい価値の創造につながる有力な道ではないかと思う。この告発の制作には最も意欲が高まる筈だと思う。難しいけれどやりがいのある仕事だと思う。
 新しい価値とは創り上げていくものだから、社会的にも人間的にも美術的にも前進したレベルであり、理想であることは確かだ。その開拓へは、真実を顕し自由な表現をするのが美術だから、今特に叶っているのは虚偽を暴く美術だと思う。しかしそうした表現の創造はそう容易いものではないだろう。美術はメッセージを伝達するが、美術は政治でもないし裁判でもないから、告発といっても直接的でないことの方が多い。その分、美術的インパクト、間接的でも波及性が、抽象による広い伝達があり、また造形的な楽しさが増す。
課題への対処の仕方と機動性
 私は、次にあげて見る例にヒントみたいなものを感じる。
・美術には目的があり、メッセージの伝達機能もあるから、プロパガンダ美術も美術の一形態だ。だから今日の危機をあぶり出しにする美術には、プロパガンダ美術があっても良いだろう。今日の社会にあった新しい形でのプロパガンダ美術が求められる。しかし例えかつてのプロパガンダ美術に倣ったものも、今はレトロにも人気があるから受けるかもしれない。ウケルだけでなく、そこから新しい表現が生まれるかも知れない。主題主義的でも、その主題を超えて広がる内容と形式に至れば心に響くだろう。・我々が目指す美術的な新しい価値の創造には、未来を担う若い世代を意識して探求するのが一つの手がかりとなるのではないだろうか?現代の若者たちの感性に対しては、例えば意気がるより肩の力を抜いたアヴァンギャルドがあっても良いのではないか。格好良いとか、気持ちよく心に響く表現は、若者を惹きつける。例えば今では年配にも愛されているジョン・レノンの歌「イマジン」を引き合いに出すと、そのメロディーはポピュラーで快い調べだが、その歌詞も人々の心を打つようだ。そこでは、「Imagine 想像せよ」と言っている理想とは裏腹に、美しさの中に現実(地獄、殺し、宗教、孤独、強欲...)が糾弾されていると思う。美しさの中に対比的に透けて出る逆イメージ、こんな表現は美術なら、どうなるのだろうか?イマジンとは、想像力を働かせよと言う意味だから、プラスの表現の中にマイナス面を暴きだす形象だ。またそのひとつには、相手の主張、嘘を逆手にとって、安全というものの裏を開き示す告発の美術もあるのではないか?あるいは、二重イメージも参考になるのではないか?いろいろな見立ての美術もある。...・新たな探求には、あらゆる素材、技術の可能性に目を向けるべきだ。その一つには、コラボレーションもある。我々は美術制作は一人での仕事と思いがちだが、共同しての開発はどうか?
 さて作品は、伝達されるために発表されなければならない。しかし政治的告発とか新しい表現には、美術館などでは発表に制約が掛かることがある。かといって、街中や野外展示も簡単ではない。我々には、これら発表の自由に対する困難を乗り越えていくことも必要だ。そして今挙げたような緊急の課題への制作発表には、悠長に来年のアンデパンダン展などを待つ暇は無く、課題に特化した発表会がなるべく早く出来ると良いと思う。そしてこれが新しい価値の創造に向けてのとりあえずの突破口ではないかと思う。そのような機動性が求められる。

日本美術会が創立70 年を迎えた。これまで25 周年と50 周年に記念誌を出版しているが、今回の記念誌は20 年ぶりということになる。私は日本美術会の会員ではなかったが、日本美術会と関わるようになって約20年になる。この20 年間をふりかえりながら、私が感じてきた美術界の変化と日本美術会の役割について思うところを述べてみたい。
1 1990 年代からの私と日本美術会の関わり
 私が初めて日本アンデパンダン展を訪れたのは、1980 年代末だったと思う。日本全体がバブル景気に浮かれていた頃だ。東京藝術大学の芸術学科の学生だった私は、当時あまり盛んでもない学生運動に熱中し、美術学部学生自治会の執行委員をしていた。民主的美術団体というものに日本美術会があるという話を聞き、日本アンデパンダン展とはどのようなものなのだろうかと思って会場へ足を運んだ。私にとって展覧会といえば、美術館の企画展、ギャラリーの個展を観るのが普通で、公募展というものを観ることも少なかった。東京都美術館で観たその印象も、作品点数が多くて他の公募展とどう違うのかさえよくわからなかったように思う。
 1990 年の春先、私は友人たちと大学の枠を超えた美術学生交流会「アート・Fizz」を立ち上げた。この会はわずか2 年ほどで自然消滅したが、ここで知った友人を介して、日本美術会の作家とつながりができた。友人から講演会や研究会のようなものに誘われ、ときどき顔を出すようになる。初めに会った作家は、首藤教之氏だったような記憶がある。資本論を読む会があるというので、西良三郎氏の邸宅にもうかがった。1993年に大学を卒業した翌年、私は縁あって銀座の愛宕山画廊に勤務するようになった。これも偶然だが、愛宕山画廊はかつて、大野五郎・糸園和三郎・寺田政明・吉井忠のグループ展「樹展」を開いていた画廊で、吉井氏ら日本美術会の作家とも交流があった。
 その頃、私はアートプロデューサーを自称していたが、毎年東京都美術館で開かれる青年美術展の運営委員をしていた。1994 年11 月、青年美術展の関連企画「青年フォーラム」で木村勝明氏を交えて鼎談をする機会があった。若手の育成に力を入れていた木村氏の依頼により、翌年3 月の第48 回日本アンデパンダン展の関連企画、フォーラムMOVA のパネリストを引き受けることになった。当時まだ新しかったインスタレーション・スぺースで「新人たちのART の行方」と題して新進の作家や評論家らと討論をした。さらに翌年1996 年の第49 回日本アンデパンダン展では、青年美術展運営委員会の共同制作として、東京大空襲をテーマにしたインスタレーション《東京燃ゆ》を出品した。私の日本美術会との公式の交流の始まりは、この頃からである。
 私は学生運動をしていた関係から、「赤旗」文化部記者、山口泰二氏に声をかけられ、ときどき「赤旗」に美術館やギャラリーの展評を書くようになった。その山口氏の勧めで、第48 回、第49 回と続けて日本アンデパンダン展の展評を「赤旗」に書くことになった。その後、「赤旗」はもとより、日本アンデパンダン展実行委員会からも直接依頼があり、「批評と感想」にも展評を寄稿したことがある。もとより点数の多いアンデパンダン展を論評するのは骨が折れる。アンデパンダン展に限らず、この時期、大手新聞社は団体展の展評掲載をとりやめた。美術団体の公募展がアートシーンの中心だった時代は、名実ともに終わったと思った。私が勤めていた愛宕山画廊も28 年続いたが、1997 年暮れに銀座の店舗を閉め、いよいよ美術業界も変わりつつあると身をもって感じた。
 その後1998 年4 月に府中市に職を得て、美術館開設準備室に入ることになる。府中市美術館は、2000 年10月にオープンし、私は公立美術館の学芸員として活動するようになった。日本アンデパンダン展は、美術館員にとっては年度末のいつも忙しい時期に毎年開催されるため、展評の執筆依頼があっても辞退することが増えた。展評を書かなくなったのにはそういう裏事情もあるが、合間を縫って展示自体はだいたい観てきたし、『美術運動』からも依頼があれば、積極的に寄稿をするように努めてきた。
2 美術を民主主義の観点から考える唯一の集団
 私がまだ20 代だった1990 年代、どうすれば新しい美術運動を起こせるかということを真面目に考えていた。その過程で日本美術会とつながり、作家の方々とも知り合いが増えていった。今世紀に入ると、2001 年の新センター開館記念アートトーク「21 世紀の美術運動に何が可能か?」、2007 年広島での60 周年記念シンポジウム「創作・社会参加・平和―今、美術を考える―」、2011 年震災直後の国立新美術館で日本アンデパンダン展アートフォーラム「今こそアンデパンダン精神を!!―時代が求める表現とは―」など、重要な機会に度々トークイベントに登壇させてもらった。「民美」でレクチャーもした。会員作家の方とは、いろいろなところで接点があり、会外でもおつきあいさせていただいた。いま40 代後半となり、これまで日本美術会の親しい友人として関係が築けたことには感謝している。全国的な美術団体で、他にこういう関係になった団体はなく、私にとっても日本美術会は特別な存在だ。
 ではなぜ、そのような関係が持続しているかといえば、日本美術会の理念にあると思う。日本美術会は、美術団体としては珍しい民主主義というテーマを掲げる。会の趣旨にも、「日本美術の自由で民主的な発展とその新しい価値の創造を目的として運動する美術家・理論家の集まり」とある。私も基本的に賛同するし、協力はしたいと考える。「日本美術の自由で民主的な発展」というところがポイントで、「日本美術」のあり方と行く末を問題にしている。そもそも作家の自由や個性にもとづく創造活動をうたう美術団体は珍しくない。日本美術会が独特なのは、個人の集合が会の個性を作るというより、会の個性ある目的に賛同する作家の集っているということにある。とくに「民主的」とは、他の団体には見られないキーワードである。これは70 年間貫かれた会の美質であり、日本美術会は美術を民主主義という観点から考えている日本ではほぼ唯一の集団だといってよいだろう。
 会の趣旨には、「文化・美術界をはじめ、課題・要求を共にする広汎な人々や組織との交流・連帯」を記している点も重要である。これも美術団体では珍しい規定だろう。多くの美術団体は、自分たち美術家の制作と発表、研鑽や相互扶助のために集っているのが普通だからだ。まず「日本美術」の発展のために活動しているという意識はないだろう。ましてやそのような課題のため、他の個人や団体と共同するという考え方もほとんどない。作家の創造団体としては、他よりも一段高い目標を掲げているのだ。その一致した目標にもとづく共同という、外へと開かれた活動の姿勢が、私のような会外の人間とも連携する根拠となっているのだろう。
 こうした会の目的や性格はずっと大切にしてほしいと思う。美術の民主化などというと、文化行政が扱うようなテーマに思えるが、それは官展の復活に反対した結成当初のスタンスから来ていると思う。そして、それを美術関係者の自主的な活動として行ってきた点が重要なのだ。国家の権力に絡めとられてしまうのではなく、美術関係者の自主的、自発的、自律的な運動として、国民の側から国家に対しても民主主義を求めていく美術運動なのである。憲法で保障された「表現の自由」を守っていくこと、「戦争放棄」という恒久平和主義を貫いていくことも、日本美術会の大きな役割なのである。美術行政に対する提言のような活動はあまり盛んではないけれども、そのときどきの国や自治体の文化政策に日本美術会はもっと意見をあげていってもよいのではないかと思う。
3 グローバル化現象に直面する日本美術の課題
 さて、日本アンデパンダン展を20 年以上眺めてきて感じる変化とは、表現形式の多様化はもちろんのこと、参加者のアマチュア化傾向だろう。とくに趣味を究めようというシニアの活躍が目覚ましい。それは悪いことではないが、問題はプロ作家の減少である。創立当初の世代も亡くなり、看板を背負ってきたような作家も減ってきた。「青年のスペース」も面白い作品はあるが、若手作家が安定して成長しているようには見えない。アンデパンダンの趣旨に共鳴して新しい作家が出品することはあるようだが、会員となるにはハードルがあるようだ。会の担い手の高齢化は、他の美術団体でも共通する課題ではあるが、新しい世代の育成は今後も大きな課題であろう。
 しかし、取り巻く環境には前向きの変化もある。戦後美術史の見直しやインターネットの普及もあり、幸い日本美術会や日本アンデパンダン展に対する認知度は高まっているように思う。1990 年代まで、美術界に関する情報は必ずしもオープンではなかった。新聞・雑誌の報道、美術関係の人脈を通じた情報で判断せざるを得ないことが多かった。戦後美術史を学べる本も少なく、読売アンデパンダン展を評価する評論家はいても、日本アンデパンダン展を偏見で語る人も多くて、日本美術会はよく知られていなかったという感じがする。20 年前にくらべると、日本美術会と日本アンデパンダン展は、創立期の活動の再評価もあり、存在感はむしろ大きくなっている。
 そもそも日展を始めと団体展のシステムは日本独特のもので、日本美術の近代化の過程で形成されたものだ。美術界の最もナショナルな制度といってよいだろう。戦後これと並行、ときに対抗しながら、国公立の近代美術館のシステムができあがってきた。美術団体による公募展は、学校制度とも結びついて、いまだに根を張っている。けれども、1990 年代後半から、美術界に大きな変化が生じている。それは日本社会の構造改革の進展、美術のグローバル化と対応して、いわゆる「現代アート」が文化として浸透してきたことである。公募美術団体が、第1 の領域だとすれば、国公立美術館は第2 の領域であり、いずれもドメスティックな美術界として確立された。それに対して、この20 年で顕著になってきたのが、第3 の領域とでもいうべき、アートプロジェクトやアートフェアなどグローバルなアートシーンと連携した新しい美術の動きだ。
 反官展の運動から出発した日本美術会だが、その活動は第1 の領域によく適合していた。1970 年代ぐらいまでは、それなりに効果的な仕組みであったと思われる。ただ1980 年代以降、全国に建設された美術館がアートシーンを牽引する時代が到来し、美術団体の存在はやや後景に追いやられた。もともと日本美術会は運動体であるがゆえに、体制としての美術館とも相性がよくない面はあるが、近年、歴史的部分については美術館の関心の対象になってきている。そして現在直面しているのが、アートプロジェクトのような既存の美術制度の枠組みをこえて広がる「現代アート」の動向である。これとどう向き合うかが、問われている。
 「現代アート」は、形式も多様であり、制度の枠に収まらない点で「美術運動」のようでもある。それを反映してのことだろう、日本美術会の活動で変わってきたと思うのは、『美術運動』の誌面だろう。新しい執筆者を積極的に迎え、刻々と変化する美術全体の状況をとらえようとする意気込みを感じる。ウェブ版を作ったのもよいことだと思う。日本美術会のホームページは、この10 年間で充実した。これらはグローバル化の時代に必要な活動である。会員の組織でこうした活動を支えるのは苦労があると思うが、日本の美術運動の「公器」として自負する日本美術会ならではの活動であり、新しい情報の吸収と発信に大いに取り組んでほしいと思う。
 いま日本美術が直面しているのも、このグローバル化現象だと思う。そうした動きを肯定するにせよ、否定するにせよ、グローバルな視座なしに新しい日本美術の創造もない。表現の多様化だけでなく、価値観自体も多様化しており、従来のドメスティックな基準では美術をとらえ切れなくなっている。この20 年間で美術を取り巻く環境は、劇的に変ったのだ。日本アンデパンダン展もそれを反映しているだろうか。いま一度、この状況下で美術を民主主義の観点から考え直し、創造活動に活かさなければならない。そこにこそ日本美術会の役割もあるだろう。グローバルな視点から日本美術のあり方をとらえ直し、そこから民主的発展の課題を、理論的にも実践的にも明らかにする必要がある。

創作と会活動の高揚期

1972 年~ 1988 年

 「あゆみ 4 高揚にむかって」では会創立以来、政治、社会、美術・文化状況の激動の時代のなかで、多くの困難を経験しながらも、会活動と創作がようやく好転し始めた。1967 年には拠点となる会センターと後継者育成のための民主主義美術研究所を設立。1970 年には「会の趣旨」を時代にふさわしい記述に改正した。
 「高度成長期」の社会、文化、美術状況
 会がようやく高揚にむかった。それは1964 年東京オリンピック、1970 年大阪万博(人類の調和と発展がメインテーマ)などが象徴するように、高度成長の時代であった。一方、公害問題の多発、ベトナム戦争、石油ショックとインフレ、失業、学園闘争などがあり騒然としつつも青年、学生を中心に進歩と希望の活力と運動が生まれていた。
 そうした中で、東京、大阪、京都などをはじめとした「革新メガロポリス」が誕生し、社会変革の大きなうねりを感じさせた。
 街中ではフォークソング、ニューミュージック、反戦歌が流れていた。
 美術界でも高度成長の流れに乗って、公私立の美術館が続々と開館し、海外のオークションで数十億円の作品を日本人が購入したと話題となっていた。様々な大型美術展が日本中で開催され、新しいコンクール展も次々発足し、美術出版も盛況であった。市中の貸し画廊が増え、盛んに個展が開かれるようになった。また、カルチャーブームなど美術の大衆化がいっそう進んだ。
 美術はそれまでの枠や概念を大きく越えて、ポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス、コンピュータ・アートなど主にアメリカを中心にした「現代美術」が流入し、展覧会やメディアでの扱いも多くなった。80 年代にはインスタレーション、サブカルチャーとの融合などが加わり、ボーダレスとも言われた。それは情報化社会が拡大し、繁栄・進歩の陰で人間疎外、空洞化が顕著になった時代でもあった。従来の美術と新しく登場した美術思潮との混沌とした様は、公募展、コンクール展、現代美術というような「住み分け」とでもいえるような状況にさえなった。(50 周年記念誌参照)
1) 新時代の中で―活力と葛藤―70 年代 
 1967 年に出来た日本美術会のセンターと付属研究所「民美」は会活動と創作活動に大きな転機をもたらした。「民美」の一期入所者は52 名。その倍の応募者があり、ほとんどが20 才代で働きながら学ぶ、夜学生であった。民美を卒業した若い人達が数年後にはアンデパンダン展で作家として注目され、次々と日本美術会に入会した。その後、会活動の中心的な担い手となっていった。
 また、その前後から学生運動に関わった美術大学生が出品、入会し共に新鮮な力として大きな活力を生み出した。こうした若い作家と、これまで会の中核として会を牽引してきた創立以来の作家群や中堅とも言える作家達が互いに影響しあい、ぶつかり合い、方向を模索し、多様な作風の作品が増加するなど創作熱が大いに高まった。
 またこの時期、全国各地で、アンデパンダン展、平和展が新しく発足し、青森、栃木、岐阜、群馬、長野、石川、大阪、三重、岡山、高知、福岡など地方の会員がそれぞれの地域で美術運動の中心として活躍した。東京のアンデパンダン展でも力強い作品で注目された。また自由美術展や他の公募展に所属する作家も多く、その多彩で鋭敏な作品は従来のリアリズム絵画とは異なり、アンデパンダン展に新鮮な作風で影響を与えた。
 出品者数でも第25 回展は711 名と過去最高になった。20 回展425 名、22 回展506 名 24 回展605 名(いずれも写真作家除く)と比較し、急激に増加したことがわかる。
 この頃から日本美術会彫刻展、日美日本画展も始まり、各地で版画展が開かれた。78 年からは夏季写生講習会が始まり、以後毎年開催。好評で参加者も多く運動や会財政の力にもなった。
 創作・理論・運動
 そうした会とアンデパンダン展の高揚の時期は時代の大きな変動期でもあり、さまざまな美術思潮や実験、刺激的作品があふれ、混沌とした様相であったことは先にも述べたが、その中で会はどう運動を進め、創作活動を発展させるか、70 年代はその大いなる模索と葛藤の時期でもあった。
 総会でのたびたびの課題提起や論議になったのも創作論、運動論であり、理論の重要であった。それは新しい美術状況と若い多くの作家が増えたことの必然的な結果であった。
 「われわれの創作の状況について『着実な前進』が言われながらも、同時に真に民主的な美術としての高い芸術性とその多様性という点で、まだまだ満足いく境地まで辿りえていないということも事実であり、この現状に対して不満感や焦燥感がある。ある人は題材やテーマに関わる内容の『民主性』を問題にし、ある人は『技術』の未熟さを、ある人は作家の創作を動機づけ導く内発性や作家的良心や自覚を問題にする」(1973年美術運動96)、
 「美術運動や創作上の将来を展望する理論強化、長期的計画が必要である」「美術そのものの価値や社会との関わりが拡張、融合、変動している『現代アート』や商業主義に晒されている今日の美術界の批判的評論など深い分析・研究が必要」(総会議案)「創作の多様化をめぐって」(第25 回アンデパンダン展座談会1972 年)では
○多様化はすでに成されている。裾野の広がりがそれを示している。ただ裾野にふさわしい高さが不足している。
○それなりに多様だが類型的。労働者・農民・漁民を描いただけ、というのが多い。「民主的な立場」を示しただけでそれ以上のものではない。
○安易な模範解答を出して、冒険や実験というものをセーブしてしまっている。
○多様で面白くなっていると評価しているが再考を要する。もっとこっぴどくやる必要がある。
 やや長い引用となったが、真剣な熱い、深まった問題意識があったことが伺える。
 「美術運動」誌では若手作家「若者の意欲―創作体験・・」、あるいは若手批評家の座談会「批評の問題を巡って」など創作と理論双方にわたり特集を組んだ。
 また優れた作家のアトリエ訪問特集を連載した。(中谷泰、井上長三郎、高田博厚、糸園和三郎、鳥居敏文、吉田利次、岡本博など)
 リアリズム論も多く、「リアリズムとモダニズム 対立と交錯」など様々な角度から論じられた。「美術の民族性・伝統をどう発展させ、現代の表現にするか」も大きなテーマとされ、日本の民衆画、転形期の運慶の連載(林文雄)、日本のリアリズムなど掲載された。
「現代美術」について
 60 年代より次々と入ってきた新しい美術思潮・作品はアメリカからのものが多く、ベトナム戦争などへの政治的な反発もあり、これらをアメリカの政策的なものとして「アメリカニズム」、「アメリカの文化侵略」と対立的にとらえる意識も一部にあり、あるいはとまどいが少なからずあった。
 80 年代以降、文化・美術の問題として見直し、徐々に変わっていった。これらの美術を「民主的・民族的美術の創造」「リアリズムの美術」との対比で批判的に見ていたといえるだろう。当時も引き続き行っていた東欧社会主義国との交流や「美術運動」誌の海外作家の特集を見てもそのあたりの実情がうかがえるが、この時期の美術状況や日本美術会の対応は今後の研究課題である。
「美術運動」誌より海外作家の紹介など
 「50 年代のアメリカ美術はどう「革命」したか」「社会主義諸国の現代美術」「いわゆる社会参加の芸術―ヨーロッパ美術」「ドイツ リアリズム」。ケーテ・コルヴイッツ、シケイロス、ベンシャ―ン、チャールズ・ホワイト、グツトーウゾ、ピカソなど。「虐殺」「ソンミ」「ベトナム上空の自由の女神」などを激しいタッチで描いた東独のウイル・シッテ。
 この時期の特徴として「アンデパンダン展はその表現形式だけでなく、質においても多くの成果を残した」「この2 年間の会員の個展、グループ展、地方展はかってない数(約280)に達し、創造力の盛り上がりを強く感じさせてきた」と1979 年総会報告で述べている。
2) 創作の前進・会運営の安定と困難―80 年代
 アンデパンダン展の出品者数は25 回展のピーク以降、少しずつ減少したが、その作品内容は青年出品者層が着実に成長し、作品にも追及の深まりがみられ変わっていく過程でもあった。また民美研究所では7 期の入所者31 名、8 期は18 名と漸減傾向が続き、新講座開講など対策が必要になっていた。
民主的立場から芸術性をいかに獲得するか
 「会員の創造活動は上昇傾向にあるが、創造作品の水準は混然とし、現実を見つめる態度と自己の問題意識に応じた表現形式、造形方法への追及が弱い。・・模索に間隙がみられる」と81 年委員会報告で述べているが、これは創作の前進・向上の中でのいわば「足ぶみ」であろう。
 「新時代に相応しい今日的課題を探る時期にある。民主主義という概念は主として運動論上の規定が内容規定を含むものか」など問いかけも続いており、作家それぞれが創作を深めるために苦闘していた。
 実際の創作では、1985 年第38 回アンデパンダン展などに見られるように、70 年代初頭に出品を始めた青年たちが注目される作家として多数登場し、その作風も60 年代とは大きく変わってきている。
 展覧会アンケートには「新しい表現への意欲を感じる作品が多い」「変化の兆しが見られる」とある。
 39 回日本アンデパンダン展で「現代美術を論じる―
芸術家の意欲と衝動」と題し、松谷彊の講演と批評家7 人による座談会が行われた。そから「美術運動」誌でもデヴィット・ナッシュ、クリストなどが紹介されてきている。
 一方、創作の安定とも見える状態の中でさまざまな会運営の停滞もいわれてきた。それはアンデパンダン展や日本美術会展の出品率や日美活動への会員参加の低調さにあり、慢性的な財政危機・研究所運営上の困難などとともに問題とされた。会員自身の自覚・存在理由が問われてもいた。
 そうしたアンデパンダン展や民美の変化と消長のなかで、81 年、常任委員長を新設し常任委員会を執行機関と位置づけ、それまでの分散的傾向ともいわれた会運営の問題点の改善と克服に努めた。
35 回アンデパンダン展 記念特陳「50 年代の軌跡」
 この特陳に会は大きな力を注ぎ、全国からそれまでの評価のある作家の代表作を数多く集めた。50 年代は混乱と対立の時代でもあったが、展示された85 点の作品にはいずれも社会の不安感や不満、抵抗を表すなど時代精神の体現ともいえる力作であり、美術の持つ力を感じさせた。会創立の意義とアンデパンダン展の役割などこれまでの会の運動や歴史を改めて見直すと同時に、確信も得、新たな展望を見出すものとなった。
 その後のアンデパンダン展出品者数の変移は38 回展530 名、39 回展488 名と減少したが、40 回展575 名、41 回展582 名と盛り返している。
 このような会とアンデパンダン展のあゆみは「いかなる権威にも屈従せず、虚飾を排し、作家の独立、自由・自主の創造精神を何よりも貴ぶ」とする初心を時代に活かそうとしたものである。この70 年代、80 年代の残された作品を振り返るとき、社会や人間を深く見つめ、時代の風潮や流行などに抗いながら、実直な作品が数多く創作されてきた。次の時代に向かって、緩やかだが、その足跡は確かである。    (十滝歌喜・稲井田勇二)

日本美術会のあゆみ 6

多様な創造と時代の表現

1989 年- 2000 年

世界の激動の中で
 1989 年11 月9 日ベルリンの壁が崩壊しその後東西ドイツが統一、1991 年12 月25 日にはソ連が崩壊し、いわゆる第二次世界大戦以後の冷戦体制が終わりを遂げたことは世界的大事件であり、内外の情勢に大きな波紋を呼ぶこととなった。一方国内では80 年代後半のバブル経済が1991 年に崩壊し、70 年代以降続いてきた高度経済成長が終焉を迎え、その後の長期不況の引き金になり、美術家周辺の生活状況に影を落とし始めていった。
 この世界情勢の変動について、日本美術会は2 回の公開セミナーを開催し東独の美学研究者を招いてベルリンの壁が崩れる前後の貴重な体験に基づいた報告と問題提起を行なうなど、深い関心を示した。   
 またこの時期、目黒区美術館・岡山県立美術館・名古屋市美術館・成川美術館・東武美術館や地方の美術館等が次々と開館し、労働者・庶民の経済力の向上もあって、美術が生活に身近なものになっていった。「ルーヴル美術館展」(1991 年)に47 万人、「バーンズコレクション展」(1994 年)に107 万人、「第1 回印象派展とその時代展」(1994 年)に40 万人が入場し、大型展覧会の大量動員の体制が作られていった。一方、空前の「名画買いあさり」がすすみ、絵が投機や転売の対象とされ、もっぱら金儲けの手段となる事態も引き起こされた。
 こうした世界情勢や美術状況にたいして、日本美術会は社会的・人間的主題を扱って幾多の優れた作品を生み出してきた日本アンデパンダン展の独自性を評価するとともに、表現の自由への干渉、退廃・刹那主義など現代の資本主義文化への警鐘を鳴らし、日本美術会の存在意義が文化的危機の進行する現代においてますます大きくなっていると主張した。
日本アンデパンダン展の新しい展開
 膨大な商業主義の氾濫の一方、高度に発達した新しいメディアの中で、日本美術会は新しい美術創造の新領域、インスタレーション・アート等、美術の既成概念を超える美術潮流にも注目し、「諸流派の独自性を尊重し、相互に認め合いながら、大局的に一致するところで協力し合う美術運動」を模索していくことになる。とりわけ現代美術の多様な全体的流れは新しいテーマと表現を求めて揺れ、美術の枠組みそのものが動揺、拡大して、ジャンルの枠をつき壊したい気持ちが広がっている。民主的美術運動に参加している美術家の中でも模索と実験も発展している。それぞれの発想と感性による多種多様な表現で“ 現代”との格闘が行われ、新しい価値の創造を探求する努力が進められてきた。
 こうした表現方法の多様化への対応、新しい表現に向けた実験として、42 回日本アンデパンダン展(1989 年)の企画展示では「インスタレーションをはじめとする新しい表現方法のスペース」が設けられた。この問題は会内でも活発に議論され、積極的に取り組んでいくべきという意見とともに相互理解が必要だとの意見も出された。その後第47 回展(1994 年)にはパフォーマンス出品者の増加もあって、インスタレーションスペースを上野の谷中の町にも拡大し新たな展開をはかった。この出品者を中心に取り組まれた「アート・フォーラム」「フォーラムMOVA(現代美術と視覚化する力)」(1993 年)も盛況だった。以降、インスタレーション・パフォーマンス表現は、日本アンデパンダン展の一つの特長として定着してきている。
第50 回記念展
 1997 年には第50 回記念日本アンデパンダン展が開催され、特別企画展の一つとして「検証展「60・70 年代のアンガージュマン(注)展」、国際展「アジアの心とカリブの心展」を特別陳列した。国際展ではキューバ・韓国という厳しい国際状況下にある美術が、かえって緊張感ある生命力を示したことに注目が集まった。キューバ1 人、韓国3 人の来日があり交流があった。これらの企画展示は国の「文化振興助成基金」から200 万円の補助を活用しておこなった。(注:知識人や芸術家が現実の 問題に取り組み、社会運動などに参加すること)
 同記念展のテーマ展「現代の視覚展」(公募)の全体では、「戦争と平和」「環境」「人権」といった社会的視点と問題意識を直接感じさせるものが多く力作も目立ったが、反面混沌とした時代をまるごと映そうとする人間風景や人間存在を問いかけるもの、木や空や花に現代の状況やその中での人間の心情を重ね合わせ真理を見ようとするもの、混乱と危機、不安の時代だからこそ大切なものを守ろうとするものなども見られ、個々様々の「現代の視覚」を再認識することになった。なおこの「現代の視覚展」には、公募作品の他に「特別展示」として、会外の3 作家-柳幸典、ジョルジュ・ルース(仏)、福田新之助-の作品も加わった。これは会外の現代作家の参加としては、初の試みだった。これらの展示はわが会と日本アンデパンダン展のこれまでの取り組みの一貫性と創作面での成果を示し、これからの創作活動を勇気づけるものであった。それは総じてヒューマンで民主主義的な基盤をも感じさせるものであり、単に社会的な作品であるにとどまらない、日本アンデパンダン展の伝統を示すものであった。
 50 周年記念では記念画集「創立50 周年記念-日本美術会・日本アンデパンダン展作品(1972 ~ 1996)と歴史」(美術運動125・126 合併号)を発行した。この記念画集はこれまでの創造活動の成果と水準の再点検の手がかりとなるとともに、これまでの運動と創作活動への確信を得られるものとなった。
 50 周年という節目を過ぎて、51 回展(1998 年)の企画展示「現代の人間像」は21 世紀を展望する気鋭の作家の作品を展示し、作品群の醸しだす現代の側面を強い印象で残した。51 回展の現代に向き合うというテーマをより具体的な視点で捉えるため、52 回展では戦争と人間のテーマそれ自体が自己点検や発展の契機となるとして「20世紀の戦争と人間」と題した公募によるコーナーをつくった。
 日本アンデパンダン展の新たな展開は様々な分野・方法で多彩に試みられていった。第44 回展(1991 年)から「批評と感想(展評)」が発行され、現在までアンデパンダン展ならではの批評集として定着してきている。「展評」は日本アンデパンダン展全体の評価と問題点、その展望に対してより多くの出品者が共に考え発展させていく上で特に重要なメディアとなっている。
 第49 回展(1996 年)では数年来声のあった従来のジャンル別展示方法を変える試みとして混合展示室を設けるなど、より自由で開放性のある空間へと取り組んだ。また青年出品者が繋がり、力の出せる「場」をつくろうと青年コーナーが設置され、合評会や交流会が活発におこなわれた。
日本美術会展
 70 年代若い会員の増加、地方での活発な表現活動が展開される中、日本美術会展(京都市美術館)は「会存立の原点、会趣旨の精神に基づいた創造の探求を目的とする会員の展覧会」として1974 年に始まった。2 回展は1980 年に開かれたが、6 年間の空白を生み、会場が半館分借りられず、止むを得ず選抜の提案がされた。しかし多くの反対意見があったりして、相当な論議があった。結果としては知恵を出し合い希望者全員を受け入れることで決着した。
 その後は関西地域委員会や京都・大阪地区での実行委員会の「極めて積極的な働き」もあり、2年に一度の開催を続け、日本美術会の創作団体としての力量を、日本の美術界の中で問い続けた。6 回展(1988 年)を迎える頃から、参加率の低下、財政上の問題、開催地との運営上の連携など極めて困難な状況を迎え、32 回総会の中でもその開催について大きな議論となっていた。
 しかし、7 回展(1990 年)で企画された「日本美術会-その創造の足跡PART Ⅰ」は、激動する現代社会の中で、真に時代の証言者たり得たかという検証と、多様化しつつある表現の可能性が問われるものであり、今後の展開の糧となるものであった。さらに8 回展(1992 年)の「日本美術会―創造の軌跡PART Ⅱ」の開催、9 回展(1994 年)での企画展示「現代の風景」「60 年代の軌跡」、10 回展(1996 年)での企画展示「戦後50 年の視野」、11 回展(1999 年)の企画展示「環境の危機-美術からのメッセージ」、12 回展(2001 年)企画展示「時代の叫び」と積極的な企画や展示やシンポジウムが行われ、13 回展(2002年)まで続けられた。
 会員展は東京以外の地域で日本美術会の運動や創作を伝え、拡げるものとして努力し、評価も徐々に高まったが、その後開催困難な状況を迎え、各地域での「自主的・自覚的」取り組みの重要性も叫ばれる中、2005 年以降、日本アンデパンダン展の出品者の希望者により、当初は移動展として、その後は現地実行委員会の主催として日本アンデパンダン広島展・京都展の開催に引き継ぐことになった。従来の京都での開催に加え、唯一の被爆地、平和運動の拠点広島での開催は積極的な意義と役割りを果たした。しかし、2013 年9 回の広島展、2014 年10 回の京都展を迎える中で財政的負担や開催地での負担も増し、各地域での自主的・主体的取り組みの重要さも指摘され、新たな形の模索が開始され、日本アンデパンダン広島展・京都展を当面閉じることとなった。
「創作上のリアリティ」と研究活動
 この間の美術状況の特徴は従来のプロレタリア美術系と新しく台頭してきたアバンギャルド系の両極を併存させてきたことだろう。この両者は結び合うことがないまま経過してきたが、この点について日本美術会の立ち位置はどうあるべきかという議論は総会・シンポジウムなどの中でかなり活発に行われてきた。
 その中心的考え方は、美術の既成概念の枠を超える諸傾向もふくめ、諸流派の独自性を尊重し、相互に認め合いながら、大局的に一致するところで協力し合う美術運動をつくりだす、という立場であった。たとえば、第35回総会の委員会報告では次のような指摘がなされている。「いま創作上の発展にとって問われているのは、表現形式や方法の違いや優劣の競い合いではなく、その形式や方法を選択したことの必然性であり、それによって個々の違いを超えた共感と交流の可能性も開かれるであろう。また会にとっての課題は、異なった-あるいは対立的な-芸術上の立場の者の間での論議の活発化や創作上の競い合いと共同の作風(マナー)の形成や相互批評の習熟であろう。」
 こうした会の創作スタンスの論議として、日本美術会のシンポジウムは1969 年に「創作」と「統一」をテーマに第1 回(知多半島)が開催された。その内容は①リアリズムをいかに多様に発展させていくか、②様々な流派を超えての統一行動をいかに進めていくか、③その中での批評の問題が中心的テーマであった。
 その後シンポジウムはしばらく途絶えていたが、1992年7 月に第2 回日本美術会シンポジウム(静岡市)が開催された。そこでソ連崩壊後の世界で民主的社会変革を深く問い直し、自分たちの歴史と今後に光を当てるための問題提起や、創作団体としての会員個々の資質や力をどう結集するかが最大の課題であるとの議論が行われた。1996 年の日本美術会展の中で行われた第3 回シンポジウムでは「われわれの表現とリアリティ」と題して「現代的な表現の意識や方法とわれわれの探求するリアリティとの関係について」熱気ある討論が行われた。2000 年10 月の第4 回シンポジウム(蒲郡)では「私たちにとってリアリティとは?」をテーマに開催した。「日本美術会は手法としてのリアリズムを創作方法として一本化している美術団体ではなく、そのようなリアリズムを目指す人たちばかりでなく、そうではない人たちを含むさまざまな立場を横断する創作態度上のリアリティ問題」(シンポ報告集)として幅広く議論が進められた。          
 このリアリティ問題は第52 回日本アンデパンダン展(1999 年)の記念講演「戦後日本のリアリズム美術を考える」(山田諭氏)を経て、「美術運動」128 号(1999 年)での「『リアリズム』論の再構築のために」、129 号(2000年)でも「現代の美術とリアリティ」、130 号(2001 年) 「現代の美術とリアリティⅡ」、131 号(2003 年)「現代の美術とリアリティⅢ」として特集され、名古屋市美術館の「戦後日本美術のリアリズム1945~1960 展」(1998 年)もあり、従来のリアリズムの捉え方を創作上のリアリティとして多面性と多様性を明らかにし、『態度としてのリアリズム』の見地を確認していく視点が浮き彫りになっていった。  
都美術館値上げ反対運動
 この間、東京都が東京都美術館の使用料の大幅な値上げを検討していることがわかり、いち早く反対運動に立ち上がった。1991 年12 月には「東京都美術館の借館料・入場料の大幅な値上げを行わないとともに、管理運営の法人組織化や民間委託をしないよう求める」請願書を日本美術会・美術家平和会議・全日本職場美術協会の三団体により東京都議会に提出し、1992 年2 月には都美術館全借館団体へ三団体共同の「お知らせとお願い」と請願書を送り、1993 年11月には三団体共同で東京都知事に対し「東京都美術館に関する意見、要望、申し入れ書」を手交し、担当者と交渉した。翌年は再び東京都美術館に三団体共同の申し入れ、1997 年には日本オーケストラ連盟の呼びかけで音楽関係者を中心に「東京都美術館使用料大幅値上げを許さない会」が結成され、反対のコンサートや署名・宣伝活動を始めた。こうした中で美術家連盟、「美術懇話会」なども都に働きかける状況も生まれ、一定の値上げ縮少となった。1998 年7月には「芸術文化都市東京を創ろう!ネットワーク」が設立され、広範な文化人の運動が開始されることになった。
組織問題
 <地域連絡会>
 日本美術会の真に活発な活動を実現していく上で、各地域における独自な会活動の確立と会全体の運動理念を統一していく方向として地域組織を充実することは、新しい民主的美術運動の全国的発展に不可欠であるということで、早いうちから呼びかけられてきた地域連絡会は、第31 回総会(1989 年)で従来の「地方連絡会」を「地域連絡会」に修正し、「各地域の実情にあった会員相互の意思疎通の基礎作り」(総会報告)として、その推進と強化を謳った。しかし、第32 回総会(1991 年)では、その推移はなかなか期待したようにはいかず結果的になりゆきを待つ消極的な対応に留まったとしている。第35回総会(1997年)以降、新センター建設資金のための展覧会などの取り組みを中心に、全国各地で地域連絡会の結成や多彩な活動が進められた。その後三重地域連絡会、京都・滋賀地域連絡会、広島地域連絡会、常磐線沿線地域連絡会、青森地域連絡会、中部連絡会、愛知連絡会、群馬連絡会、京成沿線連絡会、岡山地域連絡会が結成され、岩手・長野・大阪・埼玉・沖縄も準備が進んだ。
 <入会基準の改善>
 1986 年以来、入会の審査方法を改善し、それまで入会希望者の若干名が日本アンデパンダン展不出品であったり、作品写真の不提出があったりしたことから、32 回総会(1991 年)での入会手続きと入会審査を、日本アンデパンダン展に最低1 回以上出品していることを条件にすることにした。1997 年7 月の第35 回総会では、①会員2 名以上の推薦、または②組織部の推薦を経て委員会(常任委員会)の出席二分の一、日本アンデパンダン展出品が絶対条件ではないが、少なくとも4 ~ 5 年は出品していることが望ましいと改定した。その後第37 回総会で見直しが確認された。その内容は「日本アンデパンダン展に原則として3 回以上出品の経験を持つこと(ただし絶対条件としない)」「出席委員の三分の二の賛成」が条件となり現在に至っている。
機関誌「美術運動」など
 「美術運動」は日本美術会の結成の翌年、1947 年1 月に新聞形式で創刊された。40 年代から50 年代は年に5回から9 回の発行もあるが、困難な中ガリ版刷りを経て、1953 年8月には雑誌となり年2 ~4回の発行を維持し、1978 年9月まで109 号を発行して積極的役割を果たしてきたが、赤字累積のため、復刊に向け固定読者の拡大と機関誌内容の改善への期待を呼びかけつつ休刊やむなきに至った。休刊中は会報とそれへの折り込み合併号などの工夫をしての活動となったが、1983 年復刊「美術運動」のためのシンポジウム「今、私、美術運動」を開催するなど新たな発展を目指しての議論をすすめ、1984 年「ナンバー110 号、復刊美術運動」を発行した。財政上の措置として、発行費用を会費に組入れたり、販売に力を注いだりの努力が続けられた。
 しかし、その後も発行を維持していくことは大きな困難を抱え、「美術運動」誌は1990 年には年4 回発行予定が年2 回に、1992 年には 1 回になり、その発行体制を見直さざるを得ない状況を迎えた。そのため協力出版社探しを始め、1992 年大月書店と折衝するが不調に終わり、その後合併号を発行(123.124 号)の後、1994 年には社会文化工房「トポスの会」と交渉して提携決定し、4 月第3回委員会で提携確認をしたが、5 月第4 回常任委員会で異議が出され、委員会において当面凍結から12 月に白紙に戻すことが決定された。この間の詳しい内容は「第34回総会各部報告」(会報No.91)に詳しく記載されているが、この教訓を活かし、第35 回総会(1997 年)では、「①「美術運動」誌は発行し続ける。②編集方針の基本として会趣旨に基づき、…中略…会外の美術運動との連携・共同を目指す企画を打ち出す。会内外のそれらの運動の紹介、理論を積極的にとり入れる。③発行主体はあくまでも日本美術会とし、方針の決定は広く会内の意見を求め、尊重しておこなう」との基本を確認した。これらの経過は会の主体性の問題として重要であった。その後、6 年余の空白を経て、1998 年9 月に「美術運動No127」を発行し復刊した(125.126 号は50 周年記念画集)。以降、年に1 回の発行を維持している。カラー化も行い、新しい美術状況の中で、幅広い視野に立った美術運動を担いうる、会内外の理論・研究活動・美術状況の紹介に大きな役割を果たしてきている。
 2000 年12 月には日本美術会・日本アンデパンダン展ホームページを作成、「美術運動」もWEB 版を作成し、現在まで充実発展され情報化社会での発信に貴重な役割を果たしてきている。            (百瀬邦孝)

日本美術会のあゆみ 7

新たな活動の場へ

2001 年~ 2016 年

社会の動き―アメリカ一国支配の終焉、右傾化する日本
 9.11 同時多発テロ後(2001.9)アフガニスタン侵攻(2001 年)、イラク戦争開戦(.2003.3)があり、各地内戦とそれへの干渉、テロによる報復など、不穏な幕開けをした21世紀であったが、中国の台頭などもあり、アメリカの一国支配がゆらぎはじめた。経済面でもアメリカ主導の新自由主義がリーマンショック(2008 年)を経て、世界を同時不況に陥れる一方、グローバルな格差社会を生み出した。
 この間、日本は一貫してアメリカに追随するかたわら、特に安倍政権になってから、「明治憲法への回帰」ともいえる国家主義的・右翼的な傾向を強め、平和憲法を危機にさらしている。経済面でも、日本版「新自由主義」によって、大企業奉仕の「規制緩和」、同じくTPP 交渉参加などを強引にすすめ、国民生活は後景に押しやられてきた。ワーキング・プア、孤独死、などが流行語となる中、消費税増税(8% 2014 年)も行われた。グローバル経済の行き着く果てとして「資本主義の終焉」が語られるようになってきている。
 こうした状況のなか、2011 年3 月11 日に起こった東日本大震災と原発事故は、政治、経済、ひいては文明や科学技術、人間の心のあり方までも問う大きな事件となった。
平和と労働センター、国立新美術館
 2000 年代にはいって、日本美術会にとって、二つ、活動の場に変化があった。ひとつは日本美術会の拠点となる「平和と労働センター・全労連会館」の竣工であり、もうひとつは日本アンデパンダン展の会場の移転である。
 2001 年6 月1 日、「平和と労働センター・全労連会館」が竣工した。新センター建設は、第35 回、36 回総会において中心的な課題として提起され、多くの会員、民美卒業生、その他協力者の多大の尽力によって完成した。13 年前から会が積み立ててきた建設資金と多くの人達の個人的募金、いくつかの地域で行われたセンター建設小品頒布展の収益など、多様な形での資金活動が実った。21 世紀にはいってはじめてとなる第37回総会の報告では、「高い天井を持つ民美のアトリエは、日本美術会の後継者をはぐくみ、日美の趣旨を普及するセンターとして、また、広くなった事務所は、地方の会員や、会内外の人が気軽に足を運べる場所として、名実ともにセンターとなった。」と喜びを述べている。最終的な建設費の会負担分は3,337 万円であり、設備・備品・引越し費用などあわせて3,867 万円となった。
 国立新美術館は1995 年、公募展のための巨大貸し画廊として構想され、2007 年に開館した。日本美術会は2005 年、第61 回展(2008 年)から国立新美術館へ日本アンデパンダン展を移すことを決定した。移行にあたっては、メリット、デメリットを判断する検討材料が乏しいなか、委員会、常任委員会の場で、伯仲する議論が闘わされたが、総会で国立新美術館に移行の方向を提案していたこともあって、時期を失すると今後の要求も出しにくくなるので、決断して新しい場所で新しい展開を望むべきと移行に踏み切った。未知数部分の多い道であったが、転換点と前向きにとらえての決断であった。
多様化と混沌の美術状況
 21 世紀を迎えた美術界の状況は混沌とした状況である。表現媒体の増加により、芸術的な表現と価値の多様化がすすみ、既成の価値観でははかりきれなくなった。野外展、インスタレーションなどの分野で国際作家が進出し、地域、行政なども巻き込んだ展開がでてきて、スケールの大きな、美術の社会参加という新しい価値創造が行われるようになった。巨大芸術イベント(横浜トリエンナーレ、ヴェネッィア・ビエンナーレ、ベルリン・ビエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭、越後妻有アートトリエンナーレなどなど)が盛況ななか、若い作家たちが、公募展を離れてコンクール展や個展に流れ、総体的に美術団体の多くが組織の維持発展に苦戦する傾向となった。
 村上隆や奈良美智らが人気を博するなど、「現代美術」の変貌が語られるようになり、美術館のアミューズメント・パーク化、街づくりの道具だてとしての利用など、「社会化・大衆化」現象もすすみ、それとともに表現も多様になった。
 こうした中、日本美術会と日本アンデパンダン展は、現代美術の動きを取り込みつつ、インスタレーションスペース、パフォーマンス、映像などのジャンルに出品の道をひろげ、混合ジャンルスペースの設置、ジャンルの壁撤廃の試み、IT 社会への対応としてのホームページの開設(2000 年)、Web 版「美術運動」の発行(2010 年)など、新しい時代への対応としてさまざまな論議と工夫を重ねてきた。しかし、手探りの部分も多く、なかでも、インターネットによる情報化社会の流れは無視できないことから、これをどう活用するかが迫られた課題となっている。
「時代の表現」の探求―戦争、3.11
 美術界には、戦後60 年、あるいは70 年の節目にあたって、戦争と美術を再考する機運も生まれた。横山大観展(2013 横浜美術館)、藤田嗣治の戦争画展示(2006 年、2015 年 国立近代美術館)、「画家たちと戦争」展(2015年 名古屋市美術館)、などの展覧会や、各種刊行物(「画家たちの戦争」(新潮社2010 年)、「画家と戦争」(別冊太陽2014 年)、NHK テレビの特集番組などを契機として、戦争画の評価をめぐる論議も見られた。日本美術会も検証の時を迎えた。
 2011 年には東日本大震災がおこった。「わたしという個の言葉と表現のモチーフは3.11 以前と以後で同質であってよいか」(辺見庸)という発言もあるなか、『時代の表現』の実践者としての日本美術会と、アンデパンダン展にとって、3..11 の投げかけた問題はおおきかった。原発と科学技術、人の心と社会との信頼関係、ひいては常態化した戦争の現実や格差社会などに対して、美術はどうかかわるのか、――3.11 はより広い視野から原点を見つめなおす機会となった。
シンポジウム・研究活動
 日本美術会では、2000 年以降も、理論部、研究部を中心に、アンデパンダン展でのフォーラム、シンポジウムなどを通じて、「時代の表現」を掘り下げようとしてきた。その主な取り組みを列挙すると―
1 戦争に対する美術について ――
 シンポジウムあるいは講演会などの形で、2001 年「美術家と戦争責任―その今日性を考える」(山口泰二ほか)、「美術は戦争をどう表現するか」、(2004 年3回連続)対談―「イラク戦争から考える」(2005 年、永井潔と北野輝)、「戦争と美術 アンデパンダン展の原点をさぐる」(2016 年講演 荒木國臣・長田謙一)などがあった。「ディックスとノルデ」(2004 年講演 水沢勉)、「ケーテ・コルヴィッツの人と創作」(2006 年講演 佐川美智子)など、戦争下の画家とその表現も研究対象となった。2007 年には「美術運動」特集号「戦争と美術再考」(134 号)を発行している。
2 現代をどう捉え、どう表現するかの問題では――
 「私たちのリアリティー」(2000 年 愛知蒲郡シンポ)、「今をどうとらえるか-創作と理論」(2002 年 静岡網代シンポ)、「創作・社会参加・平和――今、美術を考える」(2007 年 広島シンポ)、「美術の始原―創造の原点とリアリティ」(2010 年 郡山シンポ 講師:上野一郎)などがあり、2001 年には「新世紀の美術運動は何が可能か?」(アートトーク、武居利史ほか)などのテーマによる研究があった。また、「日本の表現主義」(2010 年63 回展 講演:速水豊)もあった。「美術運動」129 号(2000)~ 133 号(2006)では「現代の美術とリアリティー」の特集があった。
3 日本美術会の歴史的検証としては――
 「創立から半世紀に日本美術会は何を成したか?」(2001 年 北野輝ほか)、「検証・日本アンデパンダン展の60年」(2007 年、60 回展 北野輝)、「『クロニクル1947~ 1963アンデパンダンの時代』展をめぐって」(2011 年、講師:池田龍雄、藤井亜紀)があり、また、日本美術会の歴史をつくってきた先人たちを回顧して、井上長三郎、常田健、小野忠重、村山知義、柳瀬正夢、永井潔などに光をあてる取り組みもあった。
4 3.11 と向き合って――
 2012 年65 回展のアート・フォーラム「私たちは3.11とどう向き合うか」では、被災地よりの報告とならんで詩人アーサー・ビナードの講演、「現代を生きるイマジネーション 3.11 以後」(2012 年愛知大府シンポ)、「私の表現- 3.11 後の日本に投げかけられるもの」―「フクシマからの報告および創作」、映画「放射能を浴びた『X年後』」(2013 年 66 回展 アート・フォーラム)などがあった。
 以上のとりくみは、毎年毎年、いろいろな形で、結論の出にくい問いかけを繰り返しているように見えながら、創作者自身が、原点をみつめつつ、それぞれの形で時代と向きあう自らの創作活動を深化させてゆくという、日本美術会ならでは、の意義ある追究であった。
日本アンデパンダン展のあゆみ――「時代の表現 生きる証 」を求めて
 日本アンデパンダン展は、若干の字句の変動はありながら、59 回展以降、「時代の表現 生きる証」を展覧会のテーマとして定着させてきた。
 以下、2000 年(53 回展)以降のアンデパンダン展を概観する。出品者数、出品点数の推移(年表参照)は58 回展までの横ばいまたは漸減傾向を、59 回展で意識的・組織的な努力の結果上向きに盛り返し、60 回記念展と、続く新美術館移行の61 回展を節目として一つのヤマを作った。
〇60 回展(2007 年)は日本アンデパンダン展の「60年を検証する展覧会」と位置づけ、その歴史的意義を意識化しながら、さまざまな工夫がなされた。出品者拡大のよびかけ封筒(通称、「お誘い袋」)」でのよびかけ、「アンデパンダン展リーフレット」の作成(「対策委員会」による)、美大訪問、学生へのビラ配布など、多角的かつ意欲的な取り組みが行われ、以後の取り組みの形を作った。
〇61 回展は国立新美術館でのはじめての開催であり、出品者、出品点数において一つのピークを記録し、作品の質・量ともに出品者の意気込みが顕著に見られる結果を得た。会員の出品率も75%までに回復した(その後また漸減)。一方また、この回は、展示作品をめぐっての館側とのトラブル(材料に生物混入)や、バックパネルの要求実現があったりして、新環境への対応に心を砕く場面があった。美術館側への多くの要求課題が出てきて、「国立新美術館利用団体懇話会」(13 団体) への参加と活動の重要さが浮かびあがった。地域(六本木商店街)との結びつき(宣伝への協力、鑑賞への誘いなど)がはかられたのも特徴であった。
〇63 回展は「六本木アートナイト」の効果で鑑賞者は15,420 人と激増した。
○ 64 回展(2011 年)は3 月11 日の東日本大震災の混乱の中での異例の開催となった。美術館側の節電を理由とした一方的判断により、開催日圧縮(土、日、祝日と最終日のみ)、開館時間短縮(4時まで)となり、会と実行委員会は館との折衝、鑑賞者への緊急対応などに苦心することとなった。予定していた講演会(アートフォーラムⅡ「『クロニクル1947 ~ 1963 アンデパンダンの時代』をめぐって」)は延期し、会場も東京都現代美術館に変えて実施した。
〇第65 回展(2012 年)は東日本大震災のあとを色濃く刻んだ展覧会となった。震災・原発をテーマにした意欲作が質量ともに目立った会場となり、震災救援のチャリティーとしての小品販売、被災地の児童の作品展示コーナーの設置など、画期的で充実した展覧会となった。チャリティーの収益は現地の教育福祉施設に直接届けられた。企画展示「地の種」展には、海外から36 名9 カ国からの出品があり、ほか一般展示にスペインから20名の参加があって、国際的な広がりを見せた。
○第66 回日本アンデパンダン展(2013 年)では、鑑賞者が2 万人を超え、過去最高となった。これは、「アンデパンダンの日」を設け、一日入場無料とし、「いいね!シール」などで、鑑賞者の展覧会へ積極的参加を呼びかける取り組みの効果が大きかった。
〇そのほかに、「初出品者へのメッセージ(手紙)」(58回展より)、「出品者へのメッセージ(ハガキ)」、「会場アンケート」、実行委員会スタッフと鑑賞者がともに会場をめぐる「ギャラリーツアー」(69 回展)など、年を追ってとりくみは多彩になっていった。批評誌「批評と感想」(「展評」)は53 回展(2000 年)から出品者全員に無料配布することとなり、63 回展(2010 年)からはカラー印刷化されて内容も充実した。また、展示については54 回展で「平面一般」コーナーをつくり、60 回では、「ジャンルの壁」を取り払う試みがなされた。
若者へのよびかけ―― 次世代の後継者へ
 2000 年代に入って総会ごとに青年層の獲得と、後継者の育成が叫ばれ、最重点課題とされてきた。2013 年時点での会員平均年齢は70.5 歳となっている。若年層を対象に出品料の切り下げや交流の場をふやすなどの努力はあるが、必ずしも効果をあげ得ていない。2010年「青年・若い層組織対策委員会」を設置して対策を検討した。その中で、青年による「ART CONFUSE 展」を企画・実施したことは画期的なことであった。第2回以降も継続開催されている。民美運営委員会では卒業した生徒を育てようと(若い人を中心に)2005 年頃から「アート・ワークス」展を3 回行った。アンデパンダン展にはインターネット情報などにより参加してくる若い初出品者もいるが、定着せず、依然として決め手がない状態である。他の公募展も同じ傾向があることから、社会現象とみられ、若者の志向をどこでキャッチするか、むずかしい問題である。
注目を浴びる日本美術会の歴史
 近年、戦争・社会・政治と美術の関係性について、歴史的に検証して行こうとする動きが顕著になってきた。それと関わると思われるが、ここ10 年来、美術運動を研究している外国人研究者(ジャスティン氏、アリサ・ヴォルグ氏)や日本の学者・研究者・ジャーナリズムなどが日本美術会の歴史に注目し、資料請求をしてくるケースが目立つようになった。彼らによる「『美術運動』を読む会」が活動をはじめ、東京都現代美術館が企画展示をするなど、会外でのアンデパンダン研究が活発になっている。東京都現代美術館の「クロニクル アンデパンダンの時代1947 ~ 1963」展(2010)は、「読売アンデパンダン」と連結させた企画であったが、注目を浴びた。日本美術会の運動が、ユニークで貴重な歴史を刻んでいることを示している。美術史上の位置とともに、運動組織としてのあり方も注目されている。そのなかで、2008 年に出版された「あのころのこと、今のこと」(永井潔著)は、文献として貴重なものとなった。
その他の取り組み
その他の部面で2001 年以降をみると、―
 写生会は韓国・公州(2001 年)で最初に実施したほか、毎年国内で行い、事業部としての収益も上げている。資料部は60 回展からアンデパンダン展出品の全作品の写真撮影とCD 化保存をはじめ、ついで、美術運動、会報、アンデパンダン展出品目録などの文献をデジタル保存をすすめ、なおも進行中である。膨大な資料をコンパクトに永久保存し、整理して、学習・研究活動などに利用しやすくなってきたことは、大きな前進であった。
 2011 年、第42 回総会において、20 年ぶりに趣旨改
定をおこなった。骨格に変動はないが、よりわかりやす
く表現を整理しながら、新たな時代情勢を反映する形に
改めるものであった。
 他団体との連携において、目だった活動としては、9条美術の会との連携、国立新美術館利用団体懇話会への参加(2010 年)と活動があった。特筆すべきは、「9 条美術の会」の活動である。憲法改悪への動きが急ピッチで進められるなか、2004 年6 月、「9 条の会」(大江健三郎ほか9 人の著名人の呼びかけによる)が発足して大きな運動に発展した。憲法9 条を守る、の一点での結集を呼びかけたこの「9条の会」アピールに賛同する国民の声は全国各地、各分野、領域に急速にひろがり、2011 年の時点で7500 の賛同団体がつくられるまでになった。そのなかで「9条美術の会」(呼びかけ人 大野五郎、岡部昭、川上十郎、窪島誠一郎、佐藤忠良、鳥居敏文、西常雄、野見山曉治、水尾比呂志2005 年6 月)が発足した。日本美術会はこれに全面的に協力し、他会派の人たちとともに運動の中心的存在かつ推進力となっている。この会主催の「9 条美術展」は2017 年で第6回となり、美術界における平和運動の発信点として大きな役割をになっている。2015 年の「『戦争法』反対の総がかり行動」では、全国7000 人の美術家に結集をよびかけ、1000 名余に上る賛同者を得るなどの成果をあげた。 
70 年の足跡の上に
 2016 年4 月には「日本美術会創立70 周年、民美創設50 周年記念祝賀会」をおこなった。2017 年には第70 回記念日本アンデパンダン展を迎える。20 年ぶりとなる記念誌(画集)発行をはじめ、特別展示・各種展覧会行事は、この20 年の歴史的成果の再確認と、新たな飛躍のステップ作りとしてとり組まれた。 (武田昭一)

「民主主義美術研究所」―民美の50 年史

日本美術会創立と美術研究所の設立

 日本美術会創立は戦後すぐの1946 年、激動的で尚多くの困難な問題を抱えていました。創立後20 年の1966 年臨時総会の委員会報告には「戦後社会と戦後美術の含む新しい諸矛盾や諸問題が既に現れてはいたが、まだ多分に萌芽的であり、それぞれの本質は充分あきらかになってはいなかった。しかしその後20 年の歴史の進行は、それらの新しい諸矛盾を発展させ…戦後美術状況の本質を次第に具現化して行った」とあるように、戦後の混沌はそのまま新しい矛盾の激化となっていました。そして日本美術会の美術研究所設立はすでにそのころ会の目標になっていました。’49 年2 月会報「(新宿の)日本美術会館建設に着手」の文中に「2階建とし、研究所・事務所・会議室…」とあり、完成に至らなかった会館建設運動でしたが、研究所を作る意図は創立後まもなくありました。次に研究所設置の動きが見える資料は、’65 年「日本美術会小品展へのお誘い」で、新橋の平労会館建設運動時の資金作りの一環でした。そのチラシには「小品展の売り上げは設立(会館)と拡充…日本美術会の美術教室の設営基金…研究所です」となっています。建設運動は展覧会・作品販売・寄付などいろいろな方法で行われ、お願い文の中には「美術愛好家の共同集会場、相互教育の場所、勤労美術家・青年美術家の育成、各種美術講習会」とあり美術研究所の開設も目的にしています。この建設運動を進めていく中で、より具体的に「美術研究所・民美」の姿が形造られていったと考えられます。美術研究所の設立は、日本美術会が当初よりかかげている「美術の自由で民主的な発展とその新しい価値の創造」のための相互教育と、新しい美術家の養成の場の確保でした。
民美の理念とその実現
 日美センターは1966 年5 月新橋に完成しました。その直前の2 月総会で「研究所部―研究所の指導・運営・管理を研究所長を中心に日美の活動と結びつけて推進する」とされ、’66 年10 月会報に「研究所運営委員会報告―当初10 月開講を目標…4 月迄延期する、延期の間短期間の講座を種々企画」と記されて、働く人の油絵講習会・土曜講座・木版・漫画・デザイン・日本画などの講座が計画された。これらの経験から、会員の積極的な支持と知人への勧誘方針やカリキュラムの作成、美術史や技法論、創作論など授業の中身についても話し合われ、研究所部が研究所運営委員会となり体制も整えられていきます。’66 年7 月「全会員への緊急な訴え、(第5 回委員会報告)」で「カンパのお願い…美術センターにおいて…研究所活動の計画が進められ…研究所の運営が軌道にのるに従い、会財政への若干の潤いが予想されるが、それには相当の日時を要する」と見え、慎重な計画を練っていた形跡があります。募集前には定員に満たない可能性も考えられ、順調なすべり出しにはならないとの予測もあったようです。さらに’67 年3 月会報には「4 月開講される研究所について…研究所の現況…競争率2.5 倍の105 名(の応募)」とあり比率から当初は40 名の定員を目ざしていたことがわかります。
 ’66 年7 月臨時総会で研究所の名称は「日本美術会附属 日本民主主義美術研究所」とし、初代所長に永井潔を選出した。この臨時総会の資料には、日本美術会センターの性格(案)があり、その中に民美の活動・機関・財政・教育方針などの記載がある。「目的、日本美術の民主主義的発展をはかるために必要な研究及び教育を行う。活動①日本美術会会員の相互教育、共同研究 ②新しい美術家を養成教育し、民主主義美術運動の次代の担い手を創る ③美術教育の民主主義的革新をめざす研究と実施」とあり「機関は所長の他運営委員会、講師団を組織する、財政については日本美術会より予算の配分を受け…受講料の他研究所活動による収入は日常の運営費用…余剰があれば日美財政に納入する…」となっています。
 教育方針では緻密な内容の記載がなされている。以下大意をまとめてみました。「如何に描くか」だけの技術主義ではなく、「何が故に、何のために描くか」の美術の最も根本的な問いを常に追求し…「何を、如何に」描くかを研究し教育する。「政治主義・芸術主義・本能主義」など技術軽視を排し、基礎知識の本格的な修得を重視した教育…美術教育と美術創造との相互関係を認識し、つめこみやおしつけの画一主義的教育ではなく、個性・自発性・創意性を引き出し高める教育を行う。無責任な自由放任主義、なげやりな非系統的指導を排し…」とあり、丁寧な指導を目ざしていたことがわかります。また「…当研究所においては、教育の過程は即ち研究の過程であり、又創造の過程である。教える者と学ぶ者は互いの独自の役割を厳格に追及しつつ、相互の協力によって民主主義的美術教育を研究し創造し建設していく…」との姿勢を示しています。さらに「…以上のようにわが研究所の理想はきわめて高いものであるが、その理想は日本の民主主義的運動の進展の実状に合わせて、漸進的実際的に達成されるものである。高い理想と科学的現実主義的方法の結合によって、わが研究所は一歩一歩確実に発展し、そして教育方針そのものも発展し精密化されるであろう」と結んでいます。美術教育のあるべき考え方と、個々人の創意性をひきだす熱意を持った指導を示しており、現在に於いても精彩を放っていると思います。このような理想とねばり強い指導を目ざした初期の民美は、教える側と教わる側共に熱気をはらんだ美術創造、研究の場になっていたようです。「教課実施要領試案」を見ると、通信科を設け、テキストを作り通信指導をすることも考えていた。研究生募集にあたっては、民主団体諸組織からの責任ある推薦などがあれば一層よい…ともあり、地方の民主的美術運動やサークル、組織などの押し上げも望んでいて、60 年代の社会運動の盛り上がりが民美創設の背景にあった様子も感じられます。
良好なスタートとその後の困難期
 1967 年4月民美本科1期生を迎えます。1期生は会の当初の予測をはるかに越えた応募となり、急遽定員を40名から50名に増員します(実際は52名)。’68 年1月会報には「研究所第1回文化祭開催…生徒は熱心で要望も強く、毎月のように話し合いをもっていた」、同年7月会報「卒業制作はアンデパンダン展に展示する」とあり、現在の民美祭・卒制展示は1期から始まっています。私が2期生の時、研究生との話し合いで永井先生に「民美とはどのような美術研究所ですか」との問いに、先生は「大学や専門学校ではない、ましてカルチャーセンターでも大学予備校でもなく、個人の私塾でもない、日本の民主主義美術の可能性を研究し創造する、新しい美術研究所」との答えでした。永井先生を始め、多くの講師が熱心に指導して下さり、美術上の様々な名言を与えていただき、実技指導の他自治会では先生方のアトリエ訪問を頻繁に企画し、作家の制作現場や創造する態度、美術そのものについて学ぶことができ、卒業後の方向を定めることになりました。カリキュラムとその課題についてのレジュメもしっかりしたもので、卒業してからも読み返して実際の制作にも役立った気がしています。民美での授業は、常に美術の技術も理念も感情も、美術史や美学哲学も含めて「車の車輪のように相補完し合い高みに至る」といった総合的な観点を大切にし、先生方は古今東西の美術の魅力を語って下さいました。
 ’71 年総会では4年間の総括として ①基本方針は妥当である ②教育方針と個々の作品(才能)にあらわれた結果を混同せず…芸術の内容は人から与えられず、個々に発展していくもの、芸術教育の限界を考えなくてはならない ④講師間の相互連携と統一性が必要 ⑦経営は赤字ではなく一応順調 ⑧講義レジュメを作り各地に売る…などと報告されています
 民美の応募者数が定員より多いのは4期生まででしょうか、4期生からは定員を45 名としますが、’75 年4月入所の5 期生は44 名となっています。’75 年会報で「研究所開所以来の保留金を使い果たした…」とあり、長期にわたる民美の困難期が始まります。’81 年4 月会報では「8 期生の募集…2 月段階で6 名しかいない…7 期生募集の時から徴候があった…抜本的な対策を取らなければ…」とあって「非常事態」の文言も見えます、また「8期生を迎えて…いちじるしい減少…平均年齢はそんなに高くないがこの世代の後がこない…美大やデザイン学校の増設もあろう、日美会員の紹介が少ない…運営委員会と講師団の統一をはかる」としています。’82 年会報「研究所問題、所長より報告…会員紹介入所者の著しい低下、年齢の高齢化…研究所運営は会の存亡にかかわる、現在会の中心的な実務活動は卒業生が受け持つ…」とし危機感を持ちつつ、会の次代の担い手を生み出している現実をも訴えており、民美の名称も「日本美術会附属研究所」と簡略なものに改めています。こういった民美に生徒が集まらない現象の原因はどこにあり、また有効な打開策はどうだったのか、運営委員会でも様々論議はされたと思いますが、20 年近く続く「困難期」は今にも通じる多くの教訓を含んでいると思います。1期生から5 期生までの平均年齢は23~ 24 歳で、6 期生26 歳36 名、7 期生28 歳30 名、’81 年の8 期生30 歳16 名となり、10 期生は7 名となります。’84 年6 月会報では「10 期生募集7 名の入所で運営困難、合宿して今後の問題を協議する」とあります。
 ’60 年代に石炭から石油にエネルギー変換されたが、’70 年代に度々くり返された石油危機によって、実質経済成長率は’76 年まで大巾に下り、企業は危機対策として「減量経営」にのりだします。人員削減、パート労働そして派遣労働もこの頃から始まり、さらに産業ロボットやOAといわれるコンピューター化で産業構造は激変していき、中央集中の動きは矛盾の激化を生み、地方活性の声も大きくなります。1980 年代になると「規制緩和への推進方策」「民活」といわれる公社の民営化も進められ、一方で「バブル経済」と「財テク」の動きは社会に混乱を生じさせます。’75 年から15 年間の社会変化は激烈で過労死やサービス残業の言葉もこのころ生まれ、実質的労働強化で労働環境は悪化の一途をたどります。一方ではフライドチキンやマクドナルドなどの外食産業も増大し、’83 年浦安に東京ディズニーランドが開業し、続々とテーマパークもつくられて文化、娯楽の姿も変貌します。大学やその学部も増え、デザインなど専門校も多くなり、駅前には大手企業のカルチャーセンターもでき、若者の価値観や文化環境が変化していきます。
 1983 年1 月民美設立15 周年記念祝賀会開催、同窓会発足。同年の総会報告「①研究所運営のための財政確立 ②研究所は運動の新たな担い手の育成、附属美術教育機関 ③今までの経験と成果にたって美術教育プランの再編成 ④研究生の募集も毎年」とする対策を打ち出しています。しかし ’86 年会報「研究所から訴え…研究生が集まらない、広告宣伝もしているが…会員に研究生を推薦し送ってほしい」とあり、投稿では「会の取り組みが弱い…労働条件が変わり週5 日は来られない…卒業しても特典がなく…抜本的に検討し直さないと」との声もありました。’86 年11 期生を募集するも集まらず、10 期生でこの制度を終了します。’87 年からABCの夜間コース制を取り運営するも、生徒は思うように集まらない状態が続きました。
 1985 年を基準にして総務省統計局の人口構成表を見ると、団塊世代は30 代後半にはいります。会社では中間管理職にもなっていよう、また家族があれば団塊ジュニアは10 歳~ 18 歳ほどで育ち盛り、資金も必要な時期で親にも余暇の時間はなかったのではないかと思います。民美の困難期からその後の状況を見ると、団塊世代を中心にした人々の生活状態が民美の伸長に深く係っていると読むことができます。総務省の統計をさらに見ると1995 年、団塊世代は40 歳代後半になり、団塊ジュニアは20 歳代にはいって成人しています。
昼コースの新設
 ’97 年の民美生徒数は80 名となっており、新入所者の平均年齢は46.7 歳です。’99 年の生徒数は75 名、新入所者の平均年齢は53.9 歳となり、ちょうど団塊世代と重なります。もちろん’87 年以後の様々な打開策を試みた結果ですが、大きく改良された重要な点は昼のコースの新設です。’91 年までは土曜講座を別にして、夜のコースのみでした。’92 年昼の研究科・専科を新設、’95年には本科Ⅱ・基礎科・専科と昼のコースの増設をはかり、「昼の民美」を打ち出しました。同6 月に民美創立25 年記念展が目黒区美術館区民ホールで開催され、卒業生の交流ができました。’99 年には昼コースの生徒数が夜コースを上回り、以後昼の生徒数は増えていき、合わせて70 名以上の生徒が集うことになってきました。昼のコース新設には子育てを終えた世代や、退職者を教育していく民美の新しい方向があります。しかしまた若い世代を育て、「次代の担い手」とする方針もあり、重点をどこに置くのかで揺れ動く時期で、運営委員会では様々な意見が交されました。
新しい民美の再生に向けて
 2001 年夏に民美はお茶の水に移転します。新民美に向けて同時に’99 年からの編集作業を経て、創立時からの念願だった教科書「技法書シリーズ1感動空間・デッサン」が上梓されます。民美同窓会も再建され、天井の高いアトリエは民美運営委員会も新しい風を受けたように大巾なコースの見直しを計ります。初めての試みの午前2日コース・午前人体コースを新設します。このコースは本科ほどではないが、もう少ししっかり勉強したい生徒の人気を得て、’09 年に増設され、同年には長期にわたる赤字体質だった本科夜を中止して、健全経営の方向になります。2000 年代の新民美では、週1 日コース・週2 日コース・週4 日の本科と、午前のコース・午後・夜のコースと多様な内容にして、生徒の希望に応えられるようにしていきました。さらに週1 日から段階的に本科に進められるような指導を心掛けることになります。このような民美全体としてどう運営し教育するかの指針を持つことで、生徒数も徐々に増加していきます。2000 年代後半は80 ~ 90 名以上の生徒が学んでます。赤字を作らないこととコースの増加で、民美はようやく安定的な運営が可能になりました。2011 年に生徒数は100 名となり、以後120名を越える生徒が民美を利用しています。’12 年に体験教室的な月2 日の水彩コース、’15 年には立体造形の別室・実験工房を増設しましたが、その成否はまだ不明なようです。合計10 種類のコースを持った民美は、日曜日を除きどこかで必ず授業が行われるようになりました。
おわりに
 1967 年に開設の後、50 年経過しましたが、創立時の「新しい美術家を養成し運動の次代の担い手を作る」「美術教育の民主主義的革新」という目的はどう具現されたでしょうか。以下大まかなものですが提示してみます。日美の重要な事業のひとつ、日本アンデパンダン展の全出品者の25%ほどが民美卒業・終了・在所生です。また実行委員会の働き手も民美関係者が多くなっています。さらに会の中心的な実務活動に携わる役員にも民美出身者がおり、人的担い手は育ってきていると考えられます。「美術教育…」について、現在の生徒は若い世代が少なく中高年中心ですが、各コースは複数担任制を採用してカリキュラムが検討され、担任を中心に講師と共に授業を行っており、多様な美術のあり方を教えています。諸々の事案と研究所の運営は所長をはじめ、運営委員会で論議された上で決定し、また民美内規も充実したもので、それに従って運営されています。赤字を作らない体質は日美財政にも貢献できるようになってきているようです。しかし、現状から未来を俯瞰して見た時、決して安穏としていられない問題が見え、今から対策を検討する必要を感じます。2012 年の新入生の平均年齢は60 歳、’15 年新入生では65 歳となっており、やはり団塊世代を中心にした人たちが学ぶ民美になっています。今、美術大学でも少子化で成人教育に力を入れ、企業のカルチャーセンターも次々新しい企画をたてています。その中で民美の魅力を示していく必要があり、「大学でも私塾でも、カルチャーセンターでもない」の言葉に表れるように美術の本質からの教育、懇切丁寧な指導と考えぬかれた教材が民美らしさを作るものと考えます。担任間の造形性や指導技術の交流・相互理解を深め、民美一体となった美術教育が望まれ、民美50 周年を機に「技法書シリーズ1感動空間・デッサン」を補足し、課題やコースの特質に応じた手引きや技法書なども必要でしょう。「教える者と学ぶ者は、互いの独自の役割を厳格に追求しつつ、相互の協力によって民主主義的美術教育を研究し創造し建設していく」方針を掲げ創立50年を迎えた民美は、これからも望み求められる美術研究所であると思います。      (民美所長 佐藤 勤)

国際交流史

 日本美術会・日本アンデパンダン展の国際交流は、社会主義への期待もあって、その初期からソビエト、東欧の社会主義国を中心に旺盛に行われた。
 国際交流展示は1950 年第3 回日本アンデパンダン展での特別陳列「中国木刻24 点、ドーミエ23 点、ゴヤ7 点、スタンラン4 点、ケーテ・コルヴィッツ5 点、アメリカ版画44 点、同ポスター4 点、ソビエト美術家生活写真43 点、ソビエト美術複製108 点」から始まった。
その後、1952 年5 回展では「ソビエト美術」、6 回展「世界7 ヶ国の平和ポスター」、1954 年にはピカソの「白い鳩」の複製権を正式に許諾され複製頒布を行った。8回展では「中国の最近の版画30 点、ソビエト・東ドイツ・チェコの児童画」、10 回展では日美10 周年記念で寄贈された作品「フランス5 点、アメリカ21 点、チェコ1 点、ルーマニア19 点の現代作品」、11 回展は「ドーミエ生誕150 年記念祭特陳」として「ドーミエ版画等50 点、メキシコ版画100 点、ポーランド・ソビエト版画17 点」と国際交流展示が続いた。
 1960 年代では1960 年13 回展「ケーテ・コルヴィッツ版画(オリジナル11 点、複製74 点)」、1962 年15回展「東独版画展29 名80 点」(目録別冊)、16 回展「ソビエト現代版画・水彩展184 点」(目録別冊)、17 回展「キューバ現代版画67 点・ポスター48 点」(目録別冊)、18 回展「東独代表的画家6 人の版画展121 点」(目録別冊)、19 回展「中国現代画展80 点」(目録別冊)、20 回展「ルーマニア現代版画水彩展89 点」(目録別冊)、21 回展「チェコスロバキア版画63 点」「ベトナム版画7 点」、1969 年22 回展「ベトナム民主共和国作品37 点」等が特別陳列された。
しばらく間をおき、1979 年32 回展「東独現代版画61 点」(目録別冊)、その後1987 年40 回展では「国際交流の歴史展」がおこなわれ、1990 年43 回展では「ニカラグア・ナイーブアート」を企画展示した。この時期、寄贈された海外の版画は会館の建設資金のために即売展などで頒布も行った。
 1962 年にはソビエトにおける日本現代美術展による総会の混乱もあり「真の国際交流とは」の見直しがされた。同時にこの年の15 回展「東独版画」特陳を経験し、会は国際交流における版画の有効性を再認識した。会には版画印刷機が導入され、版画講習会が開催されて会員の版画制作も旺盛で、日美の版画作品による海外展が開催できるようになった。東独への返礼展やルーマニア、キューバ等でも展示され、代表団の派遣など人的交流も行われた。海外での日本美術会展や作品交流を次に記す。
1963 年 日美版画展(東独)代表派遣:永井潔
1964 年 日美版画展(ルーマニア)派遣:伊藤和子
1965 年 日美版画展(キューバ)派遣:大成瓢吉・「中日青年文化大交流」中国招待 代表派遣:岡本博、落合茂、渡辺皓司
1967 年 東独「ケーテ・コルヴィッツ生誕 100 年」版画展・美術会議 派遣:谷内栄次、飯島俊一
1972 年 東独美術家同盟招待 派遣:小口一郎
1973 年 第10 回世界青年学生祭典(東独・ベルリン)派遣:石野泰之、平山克、直江啓示、吉見博、竹田正子
1976 年 「インターグラフィック’76 展」(東独美術家同盟主催)派遣:うえのたかし 
1981 年 日本・朝鮮友好親善美術展(朝鮮民主主義人民共和国・平壌)日本美術家代表団 日美代表:飯島俊一、藤原梵
1983 年 第9 回国際会議(東独造形美術家協会・ベルリン)派遣:うえのたかし1986 年 「インターグラフィック’87 展」(東独美術家同盟)日本美術会15 名 会員外3 名が出品
キューバとの交流           (渡辺皓司)
日本美術会とキューバの出逢いは1959 年のキューバ革命の5 年後のことで、第17 回日本アンデパンダン展の特陳「キューバ現代版画とハバナ宣言(‘60.9.20)連作」であった。それから時が流れ1986 年キューバ文芸作家同盟美術部と交流協定が調印されて、新しい美術交流が開かれた。相互に作品と代表1 名を交換する形がとられた。
 その後の経過は年表にゆずり、交流展は三度行われ、その第1回日本美術会展に私は代表として派遣された。
 1988 年3 月、私はキューバに出発したがその2 ヶ月前の1月、キューバ文芸作家同盟の大会があり、組織内の民主化と若返りが計られたという。人事は初めての選挙で行われ、若い30 ~ 40 歳代が選出され、訪問での会談はこの人たちと行われた。やりとりの中で彼等がよく口にしたのが「創造の自由」で、これまでの社会主義国のイメージを一変させられた。大会でのカストロの「創造の自由なき社会主義はありえない」との発言に心の高揚を得たようだ。文芸作家同盟美術部会員は当時200 余名で公認のプロ達。交流展で来日したネルソン・ドミンゲスをはじめ欧州やアフリカ、土着などの表現の流れの多様さと混合は、高度の質を備えたキユーバ美術の現状と読めた。また街の版画工房での美術学生たちの目の輝きや、画廊の展示作品も熱っぽさに飾らぬ作者の心が見えた。「国」の統制が見えぬ自由な動向に好感を持った。
 1991 年10 月、第2 回交流展に再度キューバを箕田源二郎代表と訪れた。キューバは経済的に大変な状態だった。ソ連と契約した輸入物資が思うように入荷せず、ガソリンも不足してバスの運行も滞るほどだった。そして私達が帰国した2 ヶ月後の12 月にソ連は崩壊したのである。
 それから25 年経った現在、私はキューバ美術の動向に疎い。25 年前の若返りのエリート達が「生活の保障が無ければ、真の創造の自由は発揮されない」と語った。芸術的ハングリー精神はその中でこそ発揮されるのだと言いたいのであろう。うらやましい話ではないか。
 若い頃、美術雑誌「みづえ」に紹介されたキューバの代表的作家ウイルフレド・ラムの作品に私は魅力を感じた。「ハバナ宣言連作」の中にもラムの作品があった。現地でも油絵の大作を見た。ヨーロッパでの体験とカリブの風の香りを感じる不思議な画面は今も魅力がある。ラムだけでなく多くの先達を追い、超え、新しいキューバ美術の展開をこの眼で確かめたいものだ。1964 年 第17 回日本アンデパンダン展特陳「キューバ現代版画、ポスター展」(版画67 点「ハバナ宣言」による連作39 点、ポスター48 点)
1986 年 日本美術会・キューバ文芸作家同盟との交流
協定調印(於キューバ 代表派遣:永井潔、冨田憲二)
1988 年 ・41 回展特陳「キューバ交流作品」40 名120 点(キューバ代表:パブロ・ボルヘス)
・第1 回日本美術会キューバ展(キューバ・ハバナ市)代表:渡辺皓司 訪問団12 名
・第6 回日本美術会展( 京都市美術館) 特陳「キューバ現代美術」
1989 年 キューバ大使館でマヌエル・メンディベ氏と懇談会に18 名参加     
1990 年 ・日本美術会・キューバUNEAC 美術部交流協定調印(’90~’92)
・第7 回日本美術会展( 京都市美術館) 特陳「現代キューバ版画展」
1991 年 ・44 回展「キューバ版画頒布会」
・第2 回日本美術会キューバ展(キューバ・ハバナ)出
品39 名 代表:箕田源二郎 訪問団14 名
1992 年 ・45 回展特陳「キューバ 現代美術」
・第8 回日本美術会展( 京都市美術館)  出品作家ネルソン・ドミンゲス来日
1996 年 第3 回日本美術会キューバ展( キューバ・ハバナ) 出品37 名 日美キューバ・メキシコツアー代表:吉田光正 訪問団会員9名他10 名    
・2 月 キューバ代表 E.Roca 氏歓迎交流会
日韓交流と国際活動の歩み 2001 ~ 2012(木村勝明)
 1991 年のソ連崩壊と東欧の民主革命と呼ばれる変革によって、日本美術会の1960 年代以後の社会主義国との美術交流への努力が限界に来、変わるべき新たな視野が求められて来た。
 10 年間の模索期間をへて木村が韓国公州の自然美術シンポジウムに1995 年に参加してYATOO(野投)を知り、日本留学中の李宣周(YATOO)も日本美術会に入会したことによって、1997 年98 年と日本アンデパンダン展でYatoo( 野投) とBaggat(場外)の資料展示、レクチャーを韓国から作家も招聘して実施した。その基礎の上に2001 年8 月に80 名を超える写生会を組織でき、地元韓国のYATOO や美術協会の後援を得られて、韓国公州への写生会を実現した。2002 年6 月にはW杯KOREA-JAPAN 記念の講演会を2 日にわたって実施し、パーティーも含め延べ230 人を集めた(韓国から著名な評論家を招く)。
 その年の11 月には「韓国の文化を深く味わう紅葉の旅」という韓国縦断の旅を実施、22 名が参加した。社会主義国への期待があった我が会の国際交流活動から、民主化した資本主義国の民間と民間の間で、隣国との文化交流という方向に、積極的に舵を切ったという事であった。もちろん、かっての植民地時代への反省もあった。そういう気持ちは多くの方が共有していたと思われる。こうした変わり方もその前の10 年間の世界史の大きな転換と激動を見てきた会員には、無理なく浸透し、講演会や韓国縦断の旅に参加してきたのではなかっただろうか。あれから10 年以上経過して客観化できる地点に来たと思う。
 2003 年には韓国光州市と、公州市で交流展が実現し、展覧会も大きなものとなり、韓国テレビ各局の取材もあった。(いずれも日本から10 名の人的交流を実現)
 その後、光州市は2006 年までだったが、公州市とは隔年相互に交流展と人的交流が実施された。
 10 年間で日本美術会(会外からも参加も含め)は延べ500 名余が出品。人的交流訪問者は、延べで100 名以上になった。会の歴史から言っても画期的な出来事だったと思われる。
 2013 年から日韓交流は会の有志によって作られたJAES が引き継ぐことになった。インターネット社会の影響と国際的な企画の取り組みが成果を上げ、その後に課題を残しつつも継続されている。
近年の国際交流
 1997 年50 回記念日本アンデパンダン展では、3 つの企画展示の一つとして「国際展 アジアの心とカリブの心」を開催し、韓国6 名、キューバ6 名の作品を展示し、欧米中心の現代美術展にない視野の広がりをみせた。
 2012 年65 回日本アンデパンダン展では企画展示「地の種」を開催し9 か国から28 名の参加があった。参加国はドイツ・イギリス・スペイン・ベルギー・モロッコ・ポーランド・キューバ・中国・韓国である。
 2015 年68 回展企画展示「第2 回 地の種」では参加国6 ヶ国、イギリス、インド、インドネシア、韓国、ドイツ、フランス/ 出品者16 名/作品点数42 点を集めて開催している。
 日本アンデパンダン展への海外からの一般出品は、2010 年63 回展にはスペインから29 名、韓国から7名があり、その後もスペインからは64 回展2 名、65回展20 名、66 回展6 名、67 回展〜69 回展は4 名と毎回続いている。        (まとめ 宮下 泉)

戦争と平和への運動と創作

 会の趣旨に(1)日本美術会は第2 次世界大戦後、新しい歴史を切り拓くことを誓って新憲法と同時期に誕生しました(後略)。(5)会は、平和な世界を願い、戦争と侵略をやめさせ、核兵器の廃絶をめざし、地球環境を破壊から守るため積極的に取り組みます。(2011年改定)とある。これは会の中心となる理念であり願いであって会の創立精神の骨格となっている。
 創立以来行ってきた「戦争と平和」の様々な活動と残された作品は会と日本アンデパンダン展の特質として、質量ともに誇るべき貴重な運動と作品群である。この視点から70 年の運動と創作活動を見ることは意義あることであろう。そのごく一部ではあるが検証し、記録したい。ただし、会の運動や日本アンデパンダン展の作品がこれらに限定されるものではないことは当然であり、記録した作品だけに「特別」の評価を与えるものでもない。
●創立初期
 「会が広範な美術家の統一組織として誕生し、自由で民主的な日本美術の発展を掲げたことは、軍国主義に蹂躙された悲惨な経験から必然的に生まれた」など「日本美術会のあゆみ 1」の発端に詳しく記述されている。会の「自由と民主主義」の旗が反軍国主義、平和を願い美術家としてあらゆる努力をする事と深く結びついていることが判るだろう。
 戦争責任の追及の項では、美術界全体の反省を強調し、戦争責任の追及は政治問題として一時的手つづきに終わるのではなく、文化・美術問題として継続的に徹底して行う。美術表現、創作活動を通して反戦平和を希求する。としている(1946 年)。
 第2 回日本アンデパンダン展では「ファシズム反対・・」のスローガンを掲げ、靉光、柳瀬正夢、川上律江らの作品143 点を「戦争犠牲美術家の遺作」として展示した。
 1950 年「平和運動の提案」(6 月、拡大中央委員会)が出され、各支部に実践の訴え、日本美術家連盟にも呼びかけた。(No .12 美術運動誌)
 又、「巨匠マチスも署名―戦争反対、原爆廃棄のストックホルム・アピールに際しては、わが国美術家の間でも多数の署名を得ているが、フランスでもピカソを始め、南仏ニースで画筆を振るっているマチスが参加している・・」(同誌No .13)と紹介。
 「ピカソの平和運動ポスターが第4 回日本アンデパンダン展に飾られ、一般に多大の感銘を与えた。送料共90 円で頒布中」とポスターの写真入りで報じている。(同誌再刊2号、1951 年)その後、ピカソから4 点のリトグラフが寄せられ、複製の許諾もあり、平和運動基金として頒布した。
 6 回展では世界7 カ国の平和ポスターの特陳があった。1952 年には朝鮮戦争や破壊活動防止法を契機として「平和宣言」を発表。その後「平和美術展」が発足し、全国で次々と開催され、日本美術会と共に平和を求める運動の母体となった。日本美術会会員もこれに積極的に加わり、大きな役割を果たしている。
 この頃、日米安保条約の下、自衛隊発足(1954 年)や水爆実験(1954 年)があり、基地闘争や原水爆禁止運動に取り組み日本アンデパンダン展でも後世に残る作品が発表された。
 初期の作品では1 回展 佐田勝「廃砲」、3 回展 丸木位里・俊「八月六日」(後に「原爆の図第1 部 幽霊」と改題)、大塚睦「ハンスト」、4 回展 矢部友衛「平和署名」、6 回展 浜田知明「初年兵哀歌」、7 回展 箕田源二郎「内灘」、池田龍雄「ぼくらを傷つけたもの」、9 回展 中村宏「砂川5 番」、本郷新「嵐の中の母子像」などがある。
 これらの作品は日本アンデパンダン展の歴史に残る記念碑的作品であるとともに、日本の戦後美術史に欠かせない作品であろう。
● 60 年安保
 1959 年、安保条約反対の大運動が日本中で湧き上がるが、日本美術会もまた、他会派の美術家と共に旗を掲げ、連日デモに参加した。「安保批判の会」「全国美術家協議会」を組織し参加した。
 政治活動と創作の関係をどうみるのか、賛否の議論が白熱する中、14 回展「1960 年のたたかい」(99 点)という課題制作の企画を行った。
 この時期の作品として13 回展 桂川寛「それでも彼らは行く」、第14 回展 市村三男三「夜空に輝く平和の旗」、15 回展 上野誠「原爆の長崎シリーズ(原子野・叫び)」、 などがある。井上長三郎は第2 回展に「漂流」を発表し話題になったが、1965 年(50 回検証展出品)「ベトナム」、36 回展「光州」と歴史的な作品を発表した。1960 年「美術運動」誌の「安保に関する美術家の発言」特集で「新安保は日米のごく少数の人達の利益を守るため、あの思い出してもぞっとする戦前戦中に味わった臨戦態勢を今度もまた作ろうというのでしょうか」と述べた。
●ベトナム戦争
 1964 年から始まったベトナム戦争では、米軍の爆撃機が沖縄米軍基地から発進し、その残虐な戦争は日を追ってエスカレートし、世界中に反戦運動が広がった。日本美術会、そして会員一人ひとりがデモに参加、署名、カンパ活動そして創作へと立ち向かった。「ベトナム人民支援」の小品即売展が各地で幾度となく行われた。又、「沖縄を返せ」の運動とも連帯し、「沖縄全面返還のための版画展」が本土、宮古島、石垣島など6ヶ所で巡回展が行われた。「ベトナム人民支援」のための小品即売展は日本アンデパンダン展会場でも毎回行い、多くの支援金を集めた。この小品展は31 回展(78 年)頃から平和運動支援のためのカンパ活動として引き継がれ、以後20 年余にわたり日本アンデパンダン展会場で続けられた。
 ベトナム戦争をテーマとした作品では、それまでアンデパンダン展にはそれほど出品されていなかった糸園和三郎 25 回展「友」、50 回検証展「黄色い水」などのベトナム連作、いわさきちひろ 28 回展「戦火の中の子供たち」シリーズ6 点はいずれもベトナム人民への深い思いと、戦争を何としてもやめさせたい気持ちに満ちた出品であった。また、まつやまふみおは9 回展「ダレスとカラス」、20 回展「殺戮の王冠」、50 回検証展「わたしはひばりがききたい」など多くの作品があり、風刺漫画で戦争の醜い本質に迫っている。滝平二郎18 回展「鉈鎌」、50 回検証展「赤い炎」がある。吉田利次、渋谷草三郎など多くの作家がつづいている。
 70 年代の作家では、井上肇が26 回展「忘れえぬ肖像」以降、19 回連続で軍服シリーズを出品。白水興承は33回展「難民」から44 回展「死者の跡」まで白骨が積み重なる鎮魂の連作であった。長谷川匠、川上十郎、川内伊久も注目された。
 1977 年「美術運動」誌で「戦争と美術」を特集し、106 号、108 号で2 回の座談会「戦争の中の美術家たち」、107 号「戦中のデッサン選」を出した。この時期出された声明の主なものでは、1978 年「有事立法反対」、1983 年「新ファシズムに対する統一戦線のよびかけ」決議、1984 年「トマホーク反対」決議、1985 年「反核」声明・「国家機密法反対」アピールを出し国会請願を行った。国家機密法反対では内外の美術家へのアンケートを行い50 人が答えた。山下菊二「戦争中、軍部の○秘や極秘印が捺印されると、都合の悪いことを秘匿してしまう。そして表現の自由が奪われた。このような危険性を持つ国家機密法に私は反対します」。野見山暁治「どういう性質のものか、又、どういう危険を内蔵しているものか、小生、無知なのである。しかし、ある事態が起こった場合、無知だったでは済まないので、早くその実体を知るように務めます」と答えている。
 以降の作品では戦時体験を風化させまいとする古参会員の杉本博 54 回展「紅い花」、55 回展「160(青春)」、上原二郎の39 回展「戦争」、52 回展「戦争の記憶・日本兵の生活」、小室寛52 回展「家族の肖像」などがある。戦時中の記憶を焼夷弾などで造形化した首藤教之48 回展「1945」、52 回展「少年期」や鯨井洪49 回展「731-MARUTA」、52 回展「三光(万人坑より)」などの大作のシリーズも戦争の実態を暴き平和を願う。沖縄や広島では宮良瑛子、上原まさのり、渡辺皓司の沖縄シリーズ、四国五郎、下村仁一らが、その地方の歴史から「平和への叫びや核の脅威」を描き続けた。
 アウシュヴィッツをテーマに連作を続ける若山保夫や星功がおり、イラク戦争では、古澤潤「シリーズ・IRAQ BODY COUNT - 死者の譜」31 点連作は82,199 もの死亡した市民の形を描き続けた。市井の人々を描いて来た岡本博は55 回展頃から、人々は暗く悲しい表情をたたえ、後方には銃を構えたものやどくろがうごめく作品になり、現代の危機や人々の不安、怒りが伝わる。
 他に八柄豊、小池仁、小番つとむ、などがおり、その外にもここで取り上げていない作家が多数いる。
 忘れてならないのは直接の戦争を描いた作品だけでなく、人物像、母子像あるいは花や風景、日常の生活を描いている作家も、「いのち」をいつくしみ、それゆえに理不尽な戦争への怒りや悲しみを作品にこめて描いていることだ。
 1996 年、日本美術会創立50 周年記念講演「戦争と美術」で永井潔は「戦争の準備が着々と進んでいた時にわれわれは、まだ呑気だった。気づいた時すでに遅かった。そして今日は戦前の時と全く同じような感じがする」と語った。
 近年の戦争と平和に関わる会の「声明」やシンポジウム、九条美術の会の活動は「あゆみ7」「年表」に記載しているが、2001 年以降でも講演会、シンポジウムは7 回行っており、大きな注目があった。
 また、九条美術の会では広範な美術家に訴え、その賛同者も多く、九条美術展への出品やメッセージでは野見山曉治、宮崎進、辻惟雄をはじめ著名な方々も多数加わり、活動が広がっている。第5 回展では一般新聞の夕刊にカラーで大きく取り上げられるなど反響も大きい。
 近年、藤田嗣治や横山大観の大きな美術展が度々行われたが、「戦争責任」には無視あるいは関わった記述さえ極めて少ない。会理論部の北野輝が「美術運動」誌などでそのつど批判や危惧を述べ、問題を指摘したが、メディアや主催美術館などの見識が問われるだろう。東京国立近代美術館の「戦争画」展示も併せて、今後も注視しなければならない。また、藤田「戦争画」(特に「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」など)の肯定的な評価が一般化する中で、われわれ自身の評価も厳しく問われる状況にあり、議論と検討を深めるべきだろう。
 65 年前の「美術運動」誌(1951 年再刊4 号)「平和と美術」座談会では佐藤忠良、鶴岡政男、永井潔、吉沢忠(批評家)らが参加し、鶴岡「今後われわれはどういう風にするか、政治的意識も必要だが、仕事の上でやっていかなければならないと思う。しかし、仕事の上でやっていて果たして平和を守れるだろうか、どうか。我々より大きな世界的な力に対して守っていけるかどうか」。吉沢「しかし作品の上で平和を守ることが出来ないくらいなら、それ以外ではよりいっそう守ることが出来ないのではないでしょうか」(中略)佐藤「りんごを描いても平和を守ったといってもよかったかもしれないが、今はそれではダメだ。平和を戦いとるという考えが絶対に必要だ」。全員「なかなか難しい問題だ」。吉沢「この座談会で皆さんが真剣に平和を考えていらっしゃることは、他の若い美術家に大きな影響を与えると思いますが、それはここにいる方の画を尊敬するからで、作品で守るということはそういう行動に裏づけされた作品ということではないでしょうか」。永井「そう。結晶点が作品であるということで、作家の全行動の結果が作品に結晶することが必要でしょう。画家でなければ守れないまもり方でなければダメだというわけです」とある。美術家としての運動や創作のあり方を自問自答し続けた70 年でもあった。
 2017 年、今日の世界は極端な貧富の格差の中で紛争やテロは絶え間なく起こり、新たな国家主義や極右の台頭が危惧されている。日本でも憲法、民主主義、平和を守り発展させる闘いはこれからである。私たちの反戦平和の活動や作品は今後も一層重みを増すであろう。

年表 1997年~2016年 創立50周年~70周年

日本美術会と日本アンデパンダン展 美術・社会一般
1997
H9
2月28日 創立50周年記念誌 「日本美術会・日本アンデパンダン展  
  作品(1972~1996)と歴史」 (美術運動125・126合併号)発行  
2月28日~3月12日 第50回記念日本アンデパンダン展(東京都美術館 以下同じ)  
  実行委員長:鯨井洪  出品:646名/1,046点 4月消費税5%へ引上げ
 ・企画展示 (1)国際展:アジアの心とカリブの心 5月アイヌ文化振興法成立
       (2)検証展:60・70年代のアンガージュマン  
       (3)テーマ展:現代の視覚展(公募)(出品:66名/104点) 6月G8サミット(ロシア参加)
 ・「第50回記念日本アンデパンダン展 批評と感想」発行(以下各展で発行) 7月火星探査機火星着
4月6日 民美入所式  新入生28名   生徒数80名  所長:西良三郎 7月香港返還
  6コース体制:本科夜・本科昼・専科・基礎科 (新コース)日本画・人体コース  
7月20日~21日 第35回日本美術会総会(新橋・平和と労働会館)  
  代表:谷内栄次、 常任委員長:鯨井洪、 事務局長:十滝歌喜、 民美所長: 9月日米安保条約の新ガイド
  西良三郎を選出    ・規約改正  ・重点方針:新センター建設事業活動 ライン合意
 ・特別決議 「憲法第九条の明文改定をねらう憲法調査委員会設置に抗議」  
8月22日~25日 夏期写生講習会(妙高高原) 89名参加 講師:石野泰之・他  
9月15日 声明「東京都美術館の使用料値上げを止めさせるために訴えます」 10月EUアムステルダム条約
11月22日~25日 民美祭(平労会館) 出品:79名/117点 (EU圏内の移動の自由)
12月「東京都美術館使用料大幅値上げを許さない会」を結成し都に陳情 12月温暖化防止京都議定書採択
12月7日 新センター建設委員会スタート 募金目標1,500万円に設定 12月対人地雷禁止(オタワ会議)
12月7日 第2回委員会 特別決議「日米の新防衛協力指針(新ガイドライン)に抗議」  
1998
H10
2月28日~3月12日 第51回日本アンデパンダン展  実行委員長:長谷川匠 2月長野冬季オリンピック
  出品:613名/1,044点   ・企画展示「現代の人間像」 3月コソボ民族紛争再発
3月7日 第2回新センター建設委員会 地域連絡会の取組みを強化 3月キトラ古墳の星宿図発見
3月27日 都美術館等の値上げ案否決  使用料値上げをストップさせる  
4月5日 民美入所式  新入生20名  生徒数78名  6コース体制 5月インド 地下核実験(11日)
7月15日~22日 「日本アンデパンダン中部日本美術展」(名古屋)開催 パキスタン地下核実験(28日)
8月21~24日 夏期写生講習会(長野・開田高原) 83名参加  講師:熊澤常男・他  
9月「美術運動 No.127」発行  特集「クロスオーバーする表現者たち」 7月小渕恵三内閣発足
9月12日 「常磐線沿線地域連絡会」発足  
11月新センターの建設場所が御茶ノ水(湯島)に決定 10月日韓首脳会談
11月22日~23日 1998年度民美祭(日美センター) 講演会:大野美代子  
1999
H11
1月28日~2月2日 広島地域連絡会が「日美広島グループ小品展」を開催  
2月28日~3月12日 第52回日本アンデパンダン展   実行委員長:伊藤定夫 1月欧州単一通貨ユーロ
  出品:613名/1,033点  ・企画公募「20世紀の戦争と人間」(59名/90点) 11カ国に導入
 ・講演会「戦後日本のリアリズム美術を考える」 講師:山田諭 3月NATO軍ユーゴへの空爆
4月4日 民美入所式  生徒数75名  6コース体制 (コソボ紛争)
7月13日~18日 「日本美術会中部会員展」(名古屋) 「中部地域連絡会」結成 4月石原慎太郎東京都知事
7月17日~18日 第36回日本美術会総会 (新橋・平和と労働会館) 5月新ガイドライン3法成立(24日)
  代表:谷内栄次、事務局長:山本良三、民美所長:小室寛を選出  
 ・ガイドライン関連法=戦争法成立強行の暴挙に抗議する特別決議 7月衆参両院に憲法調査会を置く
 ・盗聴法案(組織的犯罪対策法案)「国旗、国歌法案」の廃案を求める声明 国会改正法成立(29日)
8月20日~23日 夏期写生講習会(熊本・阿蘇) 83名参加  講師:美濃部民子・他 8月国旗・国歌法成立(9日)
9月14日~17日 「秋の小品展」(入間市)開催 14日「埼玉地域連絡会」結成 8月通信傍受法成立(12日)
9月19日 第1回常任委員会 常任委員長:稲井田勇二を選出  
10月19日~24日  ’99日本美術会展 (京都市美術館) (第11回) 9月東海村核燃料工場で臨界
  実行委員長:久保田壱重郎  出品:125名/211点 事故(30日)
 ・企画展示「環境の危機-美術からのメッセージ」  
10月26日~30日 京滋地域連絡会「日美京滋会員展」(京都・文化芸術会館)開催 12月コンピュータ2000年問題で
10月「美術運動 No.128」発行  特集「リアリズム論の再構築のために」 各国警戒態勢
11月2日~5日 1999年度民美祭(八丁堀・労働スキュエアー)  
 ・ビデオ鑑賞「常田健」  ・講演会「常田健の人と作品」 講師:佐藤善勇  
12月3日 第3回常任委員会「国立美術館・博物館の独立行政法人化に反対する声明」  
2000
H12
2月28日~3月12日 第53回日本アンデパンダン展 3月携帯電話5,000万台超え
  実行委員長:百瀬邦孝  出品:606名/999点  
 ・シンポジウム:「ヒューマニズムと創造の自由―53回展を問う―」 固定電話を抜く(3月末)
   パネラー:上野一郎・貴志カスケ・上原二郎・酒井健・旭義信 4月介護保険制度スタート(1日)
3月5日 組織部の呼びかけで「地域連絡会交流会」開催 9連絡会参加 5月ロシアプーチン大統領就任
4月2日 民美入所式  生徒数84名  6コース体制 6月南北朝鮮首脳会談
4月19日 全労連会館・新センター 起工式  
7月25日~30日 第3回日美中部会員展 7月三宅島雄山噴火 全島避難
8月25日~28日 夏期写生講習会(奥日光・湯元) 96名参加  講師:渡辺晧司・他 9月シドニーオリンピック
9月「美術運動 No.129」発行  特集:現代の美術とリアリティー  
10月7日~8日 シンポジウム 2000 (愛知県・蒲郡) (第4回) 12月ウガンダエボラ出血熱猛威
  テーマ:「私たちにとってリアリティとは」 パネラー:太田眞素巳・北野輝・ 12月BSデジタル放送スタート
  冨田憲二・富田弘一・美濃部民子・森芳功・山信田稔  
2001
H13
2月28日~3月12日 第54回日本アンデパンダン展  実行委員長:鳴海由光  
   出品:603名/1,003点  入場者:7,384人 2月タリバンがバーミヤンの
 ・映画創作体験・映画「ビギニの海は忘れない」 講師:森康行(映画監督) 古代仏像を破壊
3月19日~25日 「春を呼ぶ美術展パート2」(ギャラリーくぼた) 出品:79名/119点  
4月1日 民美入所式  在籍102名 生徒数92名  8コース体制:本科夜、本科昼、 3月アメリカ温暖化防止京都
  日本画、人体B、基礎科 (新コース)午前2日・人体A・人体基礎 議定書から離脱
4月民美技法書「感動空間 デッサン」(民美編集委員会)(本の泉社)発行 4月情報公開法施行(1日)
5月20日 新センター全労連会館完成  日美事務所は新センターへ移転 4月キトラ古墳から「朱雀」の
6月1日 「日本美術会センター 附属研究所民美アトリエ」が竣工 壁画発見
6月3日 新センター完成記念祝賀会(湯島・平和と労働センター) 4月小泉純一郎内閣成立
3日・10日 日本美術会の半世紀 その歴史資料展(ホール・日美センター) 5月WHO国際エイズ基金発足
6月3日・10日 記念行事 連続アートトーク 「21世紀の美術運動は可能か」  
 1.美術家と戦争責任-その今日性を考える  山口泰二 (6/3) 8月アンコール遺跡で千体仏発見
 2.創立から半世紀に日本美術会は何を成したか? 北野輝 (6/10)  
 3.新世紀の美術運動は何が可能か? 武居利史 (6/10) 9月アメリカ同時多発テロ(9.11)
8月5日 第37回日本美術会総会(湯島・平労センター)  委員:112名選出 10月米、アフガニスタンを空爆
  代表:渡辺皓司、事務局長:美濃部民子、民美所長:小室寛を選出 (7日)
8月24日~27日 夏期写生講習会(韓国・公州) 80名参加 講師:美濃部民子・他 10月EU首脳会議アフガンへの
9月「美術運動 No.130」発行  特集:現代の美術とリアリティーⅡ アメリカ地上作戦を支持
9月25日~30日 第12回日本美術会展(京都市美術館) 10月テロ3法案成立 自衛隊の
  出品:148名/229点   ・特別企画展示「時代の叫び」:40点 米軍後方支援が可能に
 ・講演会「糸園和三郎の世界」講師:山口泰二  実行委員長:久保田壱重郎 11月自衛艦が初の軍事支援
10月8日 第1回常任委員会 常任委員長:新美猛を選出  
2002
H14
2月28日~3月12日 第55回日本アンデパンダン展  実行委員長:森田隆一 1月EUの統一通貨「ユーロ」の
  出品:587名/973点 入場者:9,011名  テーマ「生きる証・わたしの表現」 流通開始
 ・対談と講演「鳥居敏文の芸術を語る」鳥居敏文・山中宇佐夫  217名参加 2月アメリカがイラク攻撃を示唆
3月22日、4月1日 「東京都美術館の使用料値上げに関する要望書」を都へ申入れ  
4月7日 民美入所式 新入生22名 生徒数94名 在籍98名  8コース体制  
4月9日 「有事立法に反対する声明」 常任委員会 6月サッカーW杯日韓大会
6月9日~10日 W杯記念企画講座―日本と韓国の文化交流を深めるために―  
 ・「光州・民衆美術とは?-光州民主化運動-」 講師:張錫源(全南大学) 7月第50回平和美術展(都美)
 ・「あなたは浅川巧を知っていますか?」 講師:高崎宗司  延230名参加  
7月25日~30日 第13回日本美術会展(京都市美術館)  出品:148名/229点 9月小泉首相が初の訪朝
8月4日・18日・9月1日 民美公開理論講座「洋画―その誕生から現代まで」 日朝首脳初会談
  3回連続  講師:武居利史(府中美術館)  延70名参加 「日朝平壌宣言」調印
8月24日~27日 日美写生会(萩・津和野) 64名参加  講師:峠徳美・他 10月日本人拉致被害者5人北朝鮮
10月12日~13日 日美シンポジウム2002 (熱海・網代)  35名参加 (第5回) より帰国(15日)
  テーマ:今をどうとらえるか―「創作と評論」  
  パネラー:出口守・下村仁一・古澤潤・貴志カスケ・北野輝(5名) 11月国連安保理がイラク制裁決議
11月11日~16日 「韓国の文化を深く味わう紅葉の旅」(韓国縦断) を全会一致で採択
  実行委員長:木村勝明   22名参加  
2003
H15
2月28日~3月12日 第56回日本アンデパンダン展  実行委員長:西村幸生 2月スペースシャトル空中分解
  出品:601名/1,007点   テーマ「生きる証・わたしの表現」 2月イラク戦争反対の平和デモ 
 ・講演会「反骨の精神-上原二郎の世界」講師:上原二郎 250名参加 世界60ヵ国、1,000万人以上
4月5日 中国(山口・広島・岡山)地方ブロック会議、 6日 近畿(大阪・兵庫・奈良) 3月イラク戦争開始 アメリ
  地方ブロック会議  両日の会議に新美猛・稲井田勇二が参加 リス軍バクダット制圧
4月6日 民美入所式 新入生22名 生徒数97名 在籍103名  8コース体制  
5月「美術運動 No.131」発行  特集:現代の美術とリアリティーⅢ 5月イラク戦争ブッシュ大統領
7月6日 第38回日本美術会総会(湯島・平労センター)  代表:渡辺皓司、 戦争終結宣言
  常任委員長:新美猛、事務局長:百瀬邦孝、民美所長:古澤潤を選出 5月個人情報保護法成立(23日)
 ・規約改正(会住所変更、常任委員長の総会選出) ・方針:日美の法人化 6月有事関連3法成立
8月21日~24日 日美写生会(角館、田沢湖) 参加109名  講師:根岸君夫・他 7月イラク復興支援特別措置法
9月14日 第1回常任委員会 法人化は文化庁の「社団法人」をめざす 成立 自衛隊派遣が可能に
9月24日~28日 韓日美術交流招待展 (韓国・光州・南道芸術会館)  
  出品 日本側:22名、韓国側:60名出品   訪問団(9/22日~25日) 11名  
10月9日~14日 韓日交流展(韓国・公州・公州市文芸会館)  
  出品 日本側:10名、韓国側:35名  訪問団(10/8日~15日)9名 11月総選挙で民主党大躍進
10月26日 文化庁へ「法人化する旨の申し入れ」を提出 12月イラクフセイン元大統領拘束
12月5日~9日 民美祭「研究生作品展」(目黒区美術館区民ギャラリー) 12月地上デジタル放送開始
12月7日 第2回委員会 「イラクへの自衛隊派兵に反対する声明」  
2004
H16
2月28日~3月12日 第57回日本アンデパンダン展   実行委員長:常盤博 1月鳥インフルエンザ騒動
   出品:583名/956点   テーマ「生きる証・わたしの表現」 2月陸上自衛隊本隊イラクの
 ・講演と討論 「井上長三郎の造形」 (3/6) サマワに入る
   基調講演 「井上長三郎のリアリズムの可能性」 講師:水沢勉(美術評論家)  
   画家からの発言:吉見敏治・渡辺晧司  
3月2日 法人化で文化庁と交渉 社団法人は「1エリア1法人」で実現困難と分かる  
4月4日 民美入所式 新入生14名 生徒数86名 在籍94名 8コース体制 5月EU東欧10か国正式加盟
4月18日 第3回委員会 社団法人化は困難  NPO法人化で進めることに変更 5月裁判員制度法成立
4月18日 「大阪地域連絡会」発足 代表:中部博之  
4月24日~25日 新会員歓迎スケッチ会(水上) 実行委員長:根岸君夫 参加31名 6月有事関連7法成立 自衛隊の
5月23日 声明 「イラクからの自衛隊の即時撤兵、「改憲」策動の中止を求める」 多国籍軍参加決定
7月5日  「美術運動No.132」発行  特集:現代の美術とリアリティーⅣ 6月EU憲法採択
8月20~23日 日美夏の写生会(富士山・河口湖) 85名参加 講師:石野泰之・他 8月キトラ古墳壁画の一部剥ぎ取り
8月29日 緊急連続シンポジウム 「美術は戦争をどう表現するか」 3回連続 保存
     「第1回 イラク戦争と美術を考える」 80名参加 (平労センター) 8月普天間基地の米軍ヘリが
       パネラー:増山麗奈・古澤潤・ワシオトシヒコ・若山保夫 沖縄国際大学に墜落
9月21日~26日 「日韓美術交流」日本美術会展(京都市美術館別館) 8月アテネオリンピック
  出品 日美114名/138点 韓国20点  韓国側来日10名 9月アメリカ イラクの大量破壊
9月28日 「北海道地域連絡会」発足  代表:黒田孝 兵器発見を断念
10月23日  「第2回 ナチスドイツ支配下の中で対照的な二人の画家 オットー・ 9月中東各国で反政府テロ活動が
   ディックスとエミール・ノルデ」 講師:水沢勉 80名参加 (平労センター) 頻発
11月16~21日 「日・韓美術交流」東京展(セシオン杉並) 出品:35点 11名来日 10月中越地震 M6.8 死者30人
  出品 日美56名/62点 韓国36名/37点  韓国側来日10名 12月スマトラ沖地震 M9.0
12月11日 「第3回 現代の戦争とNO WARの美術表現」  75名参加 (家電会館) 死者30万人
   パネラー:井上玲・大野修・北野輝・村永泰・首藤教之  
2005
H17
1月29日 「常磐線沿線地域連絡会」を「東葛地域連絡会」に改名  
2月2日 「恵那・中津川連絡会」発足 代表:藤原梵 2月京都議定書発効
2月24日 第9回常任委員会 日本アンデパンダン展の国立新美術館移行を決定  
2月28日~3月12日 第58回日本アンデパンダン展  実行委員長:武田昭一 3月愛知万博「愛・地球博」開幕
  出品:539名/897点  入場者:7,517名  テーマ「生きる証・わたしの表現」 4月ペイオフ凍結全面解除
 ・対談 「現代の美術とリアリティー:イラク戦争から」永井潔・北野輝 参加190名 4月JR西日本福知山線尼崎事故
4月4日 民美入所式 新入生19名 生徒数80名 在籍86名  8コース体制  
5月3~9日 日本アンデパンダン広島展(広島県立美術館) 出品:228名/247点 6月文化庁 高松塚古墳を解体
6月7~12日 日本アンデパンダン京都展(京都市美術館) 出品:175点 し壁画修復の決定
7月31日 第39回日本美術会総会(湯島・平労センター)  
  代表:根岸君夫、常任委員長:十滝歌喜、事務局長:森田隆一、民美所長: 9月ロンドン同時多発テロ
  古澤潤を選出   ・特別決議「戦争をする国への道は、自由な創造を破壊  アル=カイーダ犯行声明
  する道 憲法9条と表現の自由を断固守りぬく声明」 10月郵政民営化法成立(14日)
10月6~12日 2005「韓・日美術交流展」(韓国・公州市文芸会館) 11月歌舞伎世界無形遺産に登録
   出品:日美10名、韓国側33名  
10月7~10日 日美写生会(小樽・札幌) 52名参加  講師:佐藤善勇・他 11月ドイツ メルケル政権成立
12月4日 座談会「日本アンデパンダン展の今日的意義と今後の方向をさぐる」 11月惑星探査機はやぶさ
  出席:小坂元二、新美猛、松林良政、村永泰、百瀬邦孝、結城あつみ 小惑星イトカワに着陸
  渡辺晧司  司会:山本良三  記録:十滝歌喜  
2006
H18
2月28日 「美術運動 No.133」発行  特集:現代の美術とリアリティーⅤ 2月欧州各紙掲載のムハンマド
2月28日~3月12日 第59回日本アンデパンダン展  実行委員長:小坂元二 諷刺画にイスラム社会が抗議
  出品:602名/1,004点   テーマ「時代の表現・生きる証」 3月チェルノブイリ原発の覆い
 ・講演会「種を粉にひくな ケーテ・コルビッツ―人と創作―」 佐川美智子 「石棺」の老朽化
3月26日 委員会「38氏連名の文化芸術振興のためのメッセージへの賛同決議」  
4月2日 民美入所式 新入生23名 生徒数91名 在籍96名  8コース体制  
4月4日~9日 日本アンデパンダン広島展(第2回) 出品:210名/220点 5月ジャワ島大地震
5月16日~21日 日本アンデパンダン京都展(第2回) 出品:175名/177点 6月第60回職美展(都美術館)
7月23日 民美創立40周年記念特別講座「絵具・絵画材料と表現」 第1回  
  3回シリーズ  第2回:12月24日  第3回:2007年3月18日 7月陸上自衛隊イラクから撤退
8月6日 「教育基本法の改悪に反対する決議」 7月日銀ゼロ金利政策解除
8月16日 「小泉内閣総理大臣の靖国参拝に抗議する声明」 日本美術会  
9月12日~17日 日韓美術交流展2006京都 (京都・アートスペース東山)及び 9月安倍晋三内閣発足
  (京都市国際交流会館)2会場  出品:日美59名、韓国側10名  来日10名 10月北朝鮮初核実験
10月6日~9日 日美写生会(裏磐梯・喜多方)  35名参加  講師:伊藤定夫・他 12月改正教育基本法成立
10月13日~17日 光州・全羅南道 写生と文化交流の旅 14名参加 愛国心盛込む
11月21日~23日 民美祭「研究生の作品展」(大田区民ホール・アプリコ)  
2007
H19
2月28日 「美術運動 No.134」発行  特集:戦争と美術再考  
2月28日~3月12日 第60回記念日本アンデパンダン展 (東京都美術館 最終展) 1月国立新美術館開館(六本木)
  実行委員長:星功 出品:726名/1,200点  テーマ「時代の表現・生きる証」 1月防衛省発足
 ・懇親会 60周年記念式典  40年会員顕彰:51名  (3/3) 1月宮崎県で鳥インフルエンザ
 ・講演会「検証・日本アンデパンダン展の60年」講師:北野輝 2月公的年金の加入記録の不備
 ・写真展示「日本アンデパンダン展の60年・作品と歴史」 DVD上映 5,000万件が発覚
 ・第60回展より「全作品集CD」を作成し全作品画像の収録を開始(資料部) 3月ソマリア内戦激化
4月1日 民美入所式 新入生19名 生徒数95名 在籍98名  8コース体制  
 ・民美特別講座「ちょっと以前の生活にあった『美』について」 いなおけんじ 4月伊藤一長長崎市長銃撃
4月3日~9日 日本アンデパンダン広島展(第3回) 出品:169名/172点 4月高松塚古墳石室解体
5月15日~20日 日本アンデパンダン京都展(第3回) 出品:155名/155点 5月改憲への国民投票法成立
7月8日 第40回日本美術会総会(平労センター)  代表:根岸君夫、  
  常任委員長:十滝歌喜、事務局長:常盤博、民美所長:西村幸生を選出 7月第2回九条美術展(埼玉近代)
 ・特別決議「自衛隊による憲法・違憲の国民監視活動に抗議する」  
8月24日~27日 日美写生会(山古志村)  34名参加  講師:石野泰之・他 8月ペルー大地震
10月7日~14日 日韓美術交流小品展-情-(好文画廊) 9月安倍首相政権放棄(10日)
  出品 日本側:33名/33点  韓国側:15名/15点  来日6名 9月福田康夫内閣発足(25日)
10月15日~20日 第5回韓日美術交流展「700年百済の夢記念」 (公州文協会館)  
  出品:日美10名/20点、韓国側30名 10月日本郵政グループ発足
10月20日~21日 日本美術会創立60周年記念シンポジウム(2007・広島)(第6回)  
 テーマ 「創作・社会参加・平和―今、美術を考える」  44名参加  
  パネラー:北野輝(まとめ報告)・武居利史・川村圭三・金田勉・神田元紀  
  鈴木辰夫・坪井功次 (7名)  実行委員長:鯨井洪  
12月6日~9日 第41回民美祭「研究生作品展」(大田区民ホール・アプリコ)  
  出品:79名/215点  
12月23日 民美特別講座「故遠藤駿二の画業を辿る」 講師:遠藤欣子  
日本美術会と日本アンデパンダン展美術・社会一般  
【日本美術会創立60周年・民美創立40周年】  
2008
H20
3月19日 「美術運動 No.135」発行  特集:日美シンポジウム2007・広島 2月東京G7開催
3月19日~31日 第61回日本アンデパンダン展 (国立新美術館2F 初回) 3月イスラエル ガザ攻撃
  実行委員長:山本良三    テーマ「時代の表現・生きる証」 4月後期高齢者医療制度開始
  出品:857名/1,564点  入場者:12,999名  
 ・シンポジウム 「時代の表現 生きる証」 5月中国四川省大地震
   パネラー:萬木康博・稲井田勇二・梅村哲夫・大島美枝子・渡辺柾子 7月ガソリン1リットル180円台高騰
4月6日 民美入所式 新入生22名 生徒数95名 在籍98名  8コース体制 7月G8洞爺湖サミット
 ・民美特別講座「小樽スケッチ行から油絵制作まで」 講師:佐藤善勇  
4月8日~13日 日本アンデパンダン広島展  出品:195名/200点 (第4回) 8月北京オリンピック
4月22日~27日 日本アンデパンダン京都展  出品:172名/172点 (第4回)  
7月座談会「第61回日本アンデパンダン展をふりかえって」(美術運動136掲載) 10月リーマン・ブラザーズの破綻
7月27日 民美特別講座「創作と人生と、あるこれ… 幾つかの転機」第1回 世界同時不況
   講師:川上十郎  2回シリーズ  12月21日 第2回  後にまとめて出版 (リーマンショック)
8月29日 第1回日本美術会趣旨検討委員会  以降第41回総会に向け4回開催  
9月13日~15日 日美写生会(白根・浅間) 65名参加  講師:唐沢恭二・他  
9月16日~21日 2008日韓交流美術展(好文画廊) 11月G20金融サミット
  出品:日美35名、韓国側10名  来日:8名  
11月10日 日美60周年記念出版 「あの頃のこと 今のこと」(永井潔著)を刊行 12月年越し派遣村開設
12月第42回民美祭「研究生作品展」(大田区民ホール・アプリコ)  
2009
H21
2月「日本アンデパンダン展 歴史を創ってきた作家群 CD」 6巻を完成 1月オバマ大統領就任
3月18日~30日 第62回日本アンデパンダン展 (国立新美術館2F) 1月H2Aロケット「まいど1号」
  実行委員長:百瀬邦孝    テーマ「時代の表現・生きる証」 打ち上げ成功
  出品:791名/1,187点  
 ・アートフォーラム 「この時代・青年の生活と創造とアンデパンダン展」 3月ソマリア沖海賊対策に海上
  パネラー:浅尾大輔・荒川苗穂・竹内大悟・増山麗奈・森下泰輔・百瀬邦孝 自衛隊派遣
3月19日 「美術運動 No.136」発行  特集:アジア美術の現代 4月オバマ大統領プラハ演説
4月5日 民美入所式  新入生29名 生徒数99名 在籍104名 核兵器のない世界をめざす
  「本科夜コース」閉鎖 「午前2日(木金)」新設  8コース体制 4月完全失業率5%超える
 ・民美特別講座「私の彫刻創造の原点」 講師:吉田光正  
4月7日~12日 日本アンデパンダン広島展 出品:173名/185点。(第5回)  
4月21日~26日 日本アンデパンダン京都展 出品:150人/150点。(第5回)  
7月20日 第41回日本美術会総会(湯島・平労センター)  代表:首藤教之、 8月衆議院選挙で民主党圧勝
  常任委員長:稲井田勇二、事務局長:鳴海由光、民美所長:西村幸生を選出 9月鳩山由紀夫内閣発足(16日)
 ・日本美術会「趣旨」改訂提案は継続審議  ・40年会員表彰:37名 9月インドネシア・スマトラ島沖地震
 ・総会アピール「歴史の発展に応えて創造と運動を大きく前進させよう」 9月九条美術展
9月「美術運動」WEB版開始  
10月8日~11日 第43回民美祭「研究生作品展」(大田区民ホール・アプリコ) 11月厚生労働省が日本の貧困率を
10月7日~11日 百済文化祭と韓日美術交流の旅 25名参加 15.7%と発表 先進国最大
10月10日~13日 韓日美術交流展(韓国・公州市) 出品:日美14名、韓国25名 12月生活保護世帯過去最多
11月15日~18日 日美写生会(沖縄)  50名参加  講師:渡辺晧司・他  
日本美術会と日本アンデパンダン展美術・社会一般  
白水興承「アニマルの季節」(1972 年)  
第50 回検証展  
2010
H22
3月17日~29日 第63回日本アンデパンダン展 (国立新美術館 2F) 1月ハイチ大地震 M7.0 
  実行委員長:高橋威足  出品:827名/1,248点  入場者:15,420名 死者22万人
  海外出品:スペイン29名、韓国7名   テーマ「時代の表現・生きる証」 2月ギリシャ財政緊縮策に
 ・アートイベント「アンデパンダン展を生きた作家たち―常田健・小野忠重の人 130万人デモ
   と作品」 講師:佐藤善勇、阿部正義、山口泰二  110名参加  
 ・講演会「日本の表現主義」 講師:速水豊  研修室  90名参加  
 ・六本木アートナイト参加 27日 18時~20時 無料開放 700名入場  
4月4日 民美入所式  新入生31名 生徒数104名 在籍114名  8コース体制 4月独立行政法人事業仕分け
 ・民美特別講座「現代美術と私の創作体験」 講師:首藤教之  
4月5日~10日 日本アンデパンダン広島展 出品:201名/206点(第6回) 5月上海万博開催
4月27日~5月3日 日本アンデパンダン京都展 出品:178名/178点(第6回) 5月日米両政府 普天間基地の
6月10日 アメリカの美術史研究者 アリサ・ヴォルグ氏が日本美術会に来訪 移転先を辺野古とする声明
6月20日 「第63回日本アンデパンダン展 批評と感想(展評63)」発行 6月鳩山首相引責退陣表明(2日)
8月3日~8日 日韓美術交流展(目黒美術館市民ギャラリー) 6月菅直人内閣成立(4日)
  出品:日美37名、会員外9名、韓国18名  来日7名  
9月27日~29日 日美写生会(能登・輪島) 57名参加  講師:稲井田勇二・他  
10月23日~24日 日本美術会2010シンポジウム in 郡山(磐梯熱海)(第7回)  
 ・講演「美術の始原-創造の原点とリアリティ-」 講師:上野一郎 10月チリ鉱山落盤事故70日ぶりに
 ・作家の発言 現代を生きる作家として―意図と創作  パネラー:高橋威足・ 全員救出
  星功・李宣周・木村勝明・深谷滉  実行委員長:小林繁和  68名参加  
10月29日~1月30日 「クロニクル 1947-1963 アンデパンダンの時代」(前期) 11月尖閣諸島漁船衝突(9月)の
  東京都現代美術館が開催 日本美術会の貸出し資料を展示 ビデオがYouTubeで流出
11月18日~23日 「第1回アートコンフューズ展」(新宿・ヒルトピア) 59名参加 11月ミヤンマー スーチー氏解放
11月28日~12月1日 第44回民美祭「研究生作品展」(セシオン杉並)  
12月12日 「国立美術館美術団体懇話会」に日本美術会として初参加  
2011
H23
2月26日~5月8日 「クロニクル 1947-1963 アンデパンダンの時代」(後期)開催 1月京都議定書を延長
3月11日 東日本大震災発生 日美アトリエではアンデパンダン展の搬入準備中 1月「アラブの春」各国で独裁政権
  担当者は帰宅不能で日美アトリエに仮泊、棚落下物があったが負傷者無し に抗議
3月16日~28日 第64回日本アンデパンダン展  (国立新美術館2F) 1月中国GDP世界第2位へ
  東日本大震災のため、19・20・21・26・27日のみ、10時~16時のみ開館  
  実行委員長:橋本和明  出品:798名/1,195点  入場者:5,114名 3月東日本大震災(3.11)
  海外出品:スペイン2名    テーマ「時代の表現・生きる証」 「原子力緊急事態宣言」発令
 ・アートフォーラムⅠ「今こそアンデパンダン展精神を―時代が求める表現とは」 福島第1原発で爆発(12日)
   パネラー:宮田徹也・武居利史・首藤教之・遠矢浩子 講堂 100名参加 多量の放射性物質が拡散
 ・アートフォーラムⅡは休館のため5月3日 東京都現代美術館に変更 1~3号機がメルトダウン事故
 ・美術館借館料の一部が返還され出品者へ返金する 原子力安全・保安院
4月3日 民美入所式  新入生14名 生徒数93名 在籍100名 8コース体制 原発事故「レベル5」としたが 
 ・民美特別講座「先輩を語る 中谷泰さんの人と作品」 「レベル7」に修正
    パネラー:渡辺晧司・新美猛・中谷田鶴  司会:佐藤勤 (チェルノブイリ級)(4/12)
4月5日~10日 日本アンデパンダン広島展 出品:177名/187点(第7回)  
4月26日~5月1日 日本アンデパンダン京都展 出品:147名/147点(第7回) 3月首都圏計画停電
5月3日 アートフォーラムⅡ (東京都現代美術館) 美術館と共催 90名参加  
  「『クロニクル1947-1963 アンデパンダンの時代』をめぐって」  
  講師:池田龍雄(画家)・藤井亜紀(東京都現代美術館)・木村勝明  
6月20日~22日 日美写生会「安曇野・白馬」  88名参加  講師:新美猛・他  
7月18日 第42回日本美術会総会(湯島・平労センター)   代表:首藤教之、 7月第2回九条美術展
  常任委員長:稲井田勇二、事務局長:藤平肇、民美所長:美濃部民子を選出 7月サッカー女子W杯初優勝
 ・日本美術会「趣旨」改定  20年ぶりの改定となる  
 ・クロニクル展の経験から会史資料の整理、電子化を強化する 9月野田佳彦内閣発足
 ・特別決議「国民を危険にさらす原発からの撤退を」  ・永年会員表彰:18名 9月東京で脱原発集会6万人参加
8月7日 新入会員歓迎会(日美アトリエ)  
8月18日~20日 「第2回アートコンフューズ展」(王子・北とぴあ) 31名参加  
10月5日~9日 第9回韓日美術交流展(公州大学) 出品:31名 ツアー22名参加 11月野田首相TPP参加意向表明
12月8日~11日 第45回民美祭「研究生作品展」(大田区民ホール・アプリコ)  
2012
H24
3月「美術運動 No.139」発行  
3月22日~4月2日 第65回日本アンデパンダン展 (国立新美術館 2F)  
   実行委員長:宮本能成   テーマ「時代の表現・生きる証」  
   出品:823名/1,266点  海外出品:スペイン19名/38点 3月3.11 1周年から6月にかけて
   入場者:15,049名 全国各地で反原発デモ・集会
 ・特別企画「東日本大震災 被災地の子どもの絵」展示、小品チャリティ 6/29 20万人規模
 ・国際企画展「地の種」 出品:9ヶ国 36名/61点  
 ・アートフォーラムⅠ 講演「私たちは3.11とどう向き合うか」 3/25 講堂  
   福島からの報告:深谷滉(会員・福島)  講演:アーサー・ビナード(詩人)  
 ・アートフォーラムⅡ シンポジウム「時代が求める表現とは―日本アンデパン  
  ダン展 1964~未来へ」 講堂  
   パネラー:鯨井洪・新谷香織・美濃部民子・山中宇佐夫  
3月26日 地域委員代表者会議を開催(日美アトリエ) 18名参加  
4月8日 民美入所式  新入生30名 生徒数111名 在籍122名 9コース体制 4月金正恩 北朝鮮第1書記就任
   新コース「水彩コース」(2週に1回)を増設  
 ・民美特別講座「日本画のたどってきた道と私の創作」 講師:宮本和郎  
4月17日~22日 日本アンデパンダン京都展(京都市美術館)(第8回)  
4月25日 第65回日本アンデパンダン展座談会を開催 (平労センター)  
  参加者:岩崎孝・内田良子・十滝歌喜・早川利明・藤井剛志・山下二美子  
  吉田光正  司会:稲井田勇二   内容は会報121号に掲載  
5月1日~6日 日本アンデパンダン広島展(広島県立美術館)(第8回)  
6月10日 「第65回日本アンデパンダン展 批評と感想(展評65)」発行 8月第60回平和美術展(都美)
7月27日~31日 第10回日韓交流展(10周年記念展)(京都・元立誠小学校)  
  出品:日美47名、京都16名 公州20名  
8月5日 新入会員歓迎会(日美アトリエ) 10月フェイスブック利用者10億人
9月15日~17日 日美写生会(福島県相馬市) 99名参加  講師:十滝歌喜・他 超える
10月26日~27日 日美シンポジウム in あいち(愛知県・大府)実行委員長:小林繁和 10月山中伸弥ノーベル医学生理
 ・テーマ「現代を生きるイマジネーション 3.11以後」  40名参加 学賞受賞
   パネラー:北野輝・久保田勝巳・落合峯子・藤田日出男  
 ・講演「愛知における民主的美術運動 歴史と課題」 講師:塩沢哲弥  
11月11日 「11.11反原発 100万人集会」に会有志が30名参加 12月第2次安倍内閣発足
11月15日 資料部でA3スキャナ(複合機)を導入  会史資料の電子化が本格化 12月特定秘密保護法国会通過
11月19日~22日 第46回民美祭「研究生作品展」(大田区民ホール・アプリコ)  
11月22日~25日 「第3回アートコンフューズ展」(王子・北とぴあ) 出品56名  
2013
H25
3月20日~4月1日 第66回日本アンデパンダン展  (1階(ABCD棟)へ移行) 2月福島第1原発の汚染水問題
  実行委員長:大島美枝子  テーマ「時代の表現・生きる証」 深刻化
  出品:757名/1,147点  入場者:21,848名 2月ロシア ウラル地方に隕石落下
 ・アートフォーラムⅠ 「福島からの報告及び政策」   3/24 休憩室  
   福島からの報告:菅野偉男  福島原発事故と絵かき:深谷滉(福島)  
 ・アートフォーラムⅡ 映画「放射能を浴びたX年後」伊藤英朗  3/30講堂 3月ローマ法王フランシスコ就任
 ・3/23(土)を「アンデパンダンの日」とし終日無料 「いいねシール」投票  
  夜は「六本木アートナイト」に参加し20時まで開館 1日の入場者8,600名 4月シリア アサド側攻撃で市民
4月6日~7日 文化団体連絡協議会主催「”生きる権利と文化”フェスティバル」 多数死亡
  に参加  日本美術会と日本アンデパンダン展をプロジェクタで紹介 4月第3回九条美術展
4月7日 民美入所式  新入生15名 生徒数109名 在籍117名 9コース体制  
 ・民美特別講座「小山田二郎の世界」 講師:小堀令子(立軌会)  
4月16日~21日 日本アンデパンダン京都展(京都市美術館)(第9回)  
4月30日~5月5日 日本アンデパンダン広島展(広島県立美術館)(第9回)  
5月30日~6月9日 日本美術会協賛「新緑のカナダ西海岸を描く」  
6月23日 「第66回日本アンデパンダン展 批評と感想(展評66)」発行  
7月20日 第43回日本美術会総会(平労センター)  代表:鯨井洪、常任委員長:  
  木村勝明、事務局長:藤平肇、民美所長:美濃部民子を選出 委員87名選出  
 ・特別決議「平和と自由を願う美術家は憲法改悪を許さない!」  
 ・永年会員顕彰:5名  
10月13日~16日 「第4回アートコンフューズ展」(東京芸術劇場B1) 出品:52名  
10月18日 「日本美術会・日本アンデパンダン展メールマガジン」発行開始 11月ナチスの略奪絵画1400点
10月21日~24日 日美写生会「瀬戸内海・吉備路」 41名参加 講師:武田昭一・他 発見
11月10日 「会報 No.124」発行  本号よりカラー印刷になる(B5判)  
12月12日~15日 第47回民美祭「研究生作品展」(大田区民ホール・アプリコ)  
2014
H26
3月19日~31日 第67回日本アンデパンダン展  実行委員長:伊藤八枝  
  出品:753名/1,111点 入場者:19,300名  テーマ「時代の表現・生きる証」 3月日米韓初会議
 ・アートフォーラム 講演「君の星はかがやいているか」 講師:伊藤千尋 3月南極海での調査捕鯨中止
   3/23 講堂  175名参加 3月ロシア クリミアを制圧
4月6日 民美入所式  新入生11名 生徒数111名 在籍123名 9コース体制 4月消費税8%へ引上げ
 ・民美特別講座「危機の時代の美術―1920年代ドイツの美術・デザインから―」 4月韓国で旅客船沈没
  講師:長田謙一(名古屋芸術大学)  
4月15日~20日 日本アンデパンダン京都展(京都市美術館)(10回目) 5月アラル海消滅
6月22日 「第67回日本アンデパンダン展 批評と感想(展評67)」発行 7月安倍内閣「集団的自衛権の
8月20日 「会員名簿 2014」を発行 行使容認」を閣議決定
8月24日~27日 第5回アートコンフューズ展(東京芸術劇場B1) 出品:40名  
10月12日 日本美術会シンポジウム「『危機と美術』21世紀美術家の創作課題」 9月スコットランド独立住民投票で
 ・「芸術の歴史的視点から」 講師:上野一郎   平労センター 100名参加 否決
 ・「戦後美術・日本アンデパンダン展の歴史から」 講師:北野輝 9月御嶽山噴火
 ・「感性の変容と芸術―日本の文化芸術の現状をふまえて」 講師:荒木國臣  
11月16日~18日 日美写生会「近江八幡」 51名参加  講師:美濃部民子・他  
12月3日~6日 第48回民美祭「研究生作品展」(蒲田・大田区民ホール アプリコ) 12月衆議院選挙 安倍政権継続
12月21日 民美特別講座 「沖縄―愛と平和と―」 講師:宮良瑛子  
2015
H27
2月1日 「会報 No.126」発行  本号よりA4判(カラー印刷) 1月第4回九条美術展
3月1日 「美術運動 No.142」発行 1月イスラム過激派ISILが邦人
3月18日~30日 第68回日本アンデパンダン展  実行委員長:三田久美子 人質2名殺害
  出品:696名/1,020点 入場者:15,200名  テーマ「時代の表現・生きる証」 1月フランスで連続テロ
 ・企画展示「第2回 地の種展」 出品:6ヶ国 21名/41点 3月チュニジア博物館でテロ
 ・アートフォーラムⅠ 講演「アンデパンダン展の源流をさぐる」 3/29 講堂  
   「村山知義」 講師:水沢勉  「柳瀬正夢」 講師:武居利史 6月選挙権年齢18歳以上に引き
4月5日 民美入所式  新入生23名 生徒数120名 在籍129名  10コース体制 下げ
  新コース「実験工房」をアトリエ葛美内に増設 7月アメリカ・キューバ国交回復
 ・民美特別講座 「熊谷榧 『山と雪と人』を描いて65年」 講師:熊谷榧 9月戦争法案(安保関連法案)
7月19日 第44回日本美術会総会(平労センター)   代表:鯨井洪、常任委員長: 参議院強行採決(19日)
  木村勝明、事務局長:渡辺柾子、民美所長:佐藤勤を選出  委員83名選出 「戦争法廃止を求める2,000万
 ・特別決議「『戦争法案』を廃案に」  ・永年会員表彰:4名 署名」運動始まる
9月5日~7日 日美写生会「岩手路・震災復興の今」 46名参加  講師:峠徳美・他 9月EUが難民受け入れ案を発表
9月13日~16日 第6回アートコンフューズ展(東京芸術劇場B1) 出品:40名 10月TPP12か国大筋合意
12月3日~6日 第49回民美祭「研究生作品展」(下丸子・太田区民プラザ) 10月マイナンバー制度施行
2016
H28
【日本美術会創立70周年・民美創立50周年】  
3月1日 「美術運動 No.143」発行  特集:戦後70年・美術からのメッセージ 2月第5回九条美術展
3月16日~28日 第69回日本アンデパンダン展   実行委員長:手島邦夫  
  出品:667名/992点  入場者:15,494名  テーマ「時代の表現・生きる証」  
 ・アートフォーラム「戦争と美術―アンデパンダン展の原点をさぐる」 3/27 講堂 4月電力の完全自由化
   「藤田嗣治『アッツ島玉砕』、松本竣介『三人・五人』」 講師:長田謙一 4月熊本地震発生(14日)
   「『戦争芸術』の目的性と芸術性」 講師:荒木國臣  260名参加  
4月3日 民美入所式  新入生16名 生徒数111名 在籍124名 10コース体制 5月第70回職美展(都美術館)
 ・民美特別講座「美をつくる心―ヨーロッパの美術・日本の美術・アフリカの美術」  
     講師:伊藤満(アフリカンアートミュージアム館長) 6月英国民投票でEU離脱過半数
4月24日 「日本美術会創立70周年・民美創立50周年 記念祝賀会」を開催 6月18才選挙権施行
 ・記念講演「日美70年のあゆみと展望」 講師:北野輝  
 ・スライド「日本美術会70年のあゆみ」(日美資料部作成)を上映 7月「画家・新海覚雄の軌跡」展
8月28日~30日 日美写生会「万座高原」 35名参加  講師:西村幸生・他 (府中美術館)
8月30日 組織部が「会員通信 No.1」を創刊 22名の近況を掲載 7月東京都知事選挙(31日)
9月25日 「新入会員歓迎のつどい」を開催(日美アトリエ) 小池百合子知事が誕生
  ・「日本美術会の70年―歴史と作品」  
10月10日 「会員名簿(2016.10.10)」を発行(事務局) 11月6日発送 8月リオデジャネイロ オリンピック
11月13日 日本美術会創立70周年記念シンポジウム(平労センター2Fホール) 9月豊洲市場の盛り土問題発覚
 テーマ 「日本美術会とともに歩んだ永井潔の活動と意義をさぐる」  
  ・「永井潔の生涯と仕事」 北野輝  
  ・「永井絵画とリアリズム」 根岸君夫・木村勝明  
  ・「永井芸術論の今日性」 上野一郎・稲沢潤子(作家)  116名参加 11月アメリカ大統領選トランプ勝利
11月15日~19日 第7回アートコンフューズ展(池袋・東京芸術劇場B1) 12月韓国・朴大統領の弾劾可決
12月12日~15日 第50回民美祭「研究生作品展」(大田区民ホール アプリコ)  
  ・会場でスライド「日本美術会70年(民美50年)のあゆみ」を上映  

資料 「日本美術会・日本アンデパンダン展70年」

和暦 開催 月/日 大会 委員長   ―   書記長   ―   日本アンデパンダン展
総会 代表 常任委員長 事務局長 研究所長 会期 実行委員長 出品者 点数
1946  S21  4/21  創立-     内田 巌            
1947  S22  -      1 都美12/9-18 展覧会委員 142 232
1948  S23  12/4・5  2回総会 硲 伊之助   永井 潔   2 11/22-12/16 展覧会委員 181 289
1949  S24  12/4  3回大会 野口弥太郎   水澤澄夫   -
1950  S25  11/23  4回大会 野口弥太郎   高森捷三   3 2002/8/17 展覧会委員 266 450
1951  S26  10/13  臨時大会 別府寛一郎   高森捷三   4 2002/5/14 展覧会委員 270 421
1952  S27  2/13  5回大会 別府寛一郎   吉井 忠   5 2002/5/14 展覧会委員 274 438
1953  S28  3/4  6回大会 井上長三郎   新海覚雄   6 2/22-3/5  展覧会委員 420 710
1954  S29  3/4  7回大会 井上長三郎   箕田源二郎   7 2/21-3/4  展覧会委員 555 877
1955  S30  2/12・14  大会準備会     8 2002/2/14 展覧会委員 470 800
1956  S31  2/10・14  8回大会 硲 伊之助   永井 潔 会員再登録 9 2002/2/14 展覧会委員 479 721
1957  S32  2/1  9回大会 硲 伊之助   中島保彦   10 1/28-2/8  展覧会委員 - 1,064
1958  S33  7/3  10回大会 不在   桂川 寛   11 2007/2/14 展覧会委員 - 994
1959  S34  2/21  大会 不在   中野 淳   12 2/18-3/1  展覧会委員 372 668
1960  S35  2/28  大会 不在   (代行:杉本博)   13 2/18-3/1  展覧会委員 - 737
1961  S36  2/26  1961総会 不在   金野新一   14 2/18-3/2  展覧会委員 391 732
1962  S37  2/25・3/10・4/11 1962総会 不在   金野新一   15 2/18-3/2  展覧会委員 302 548
1963  S38  2/27  17回総会 不在   澤田俊一   16 2/18-3/2  展覧会委員 333 690
1964  S39  2/25  18回総会 不在   谷内栄次   17 2/18-3/1  吉川佳男 450 950
1965  S40  2/28  1965総会 不在   谷内栄次   18 2/18-3/2 岡本 博 473 1,040
11/14 臨時総会 新橋会館建設
1966  S41 2/27 1966総会 中谷 泰   谷内栄次 民美創立 19 2/18-3/2  渋谷草三郎  539 978
7/31 臨時総会   永井 潔
1967  S42  2/27  1967総会 中谷 泰   滝平二郎 永井 潔 20 2/18-3/2  藤井 哲 - 1,070
1968  S43  2/25・26  1968総会   21 2/18-3/2  鹿室修一 463 923
1969  S44  2/22・23  1969総会 中谷 泰   渋谷草三郎 永井 潔 22 2/18-3/2  河野 新 506 1,056
1970  S45  5/3・4  1970総会   23 2/18-3/2  渡辺皓司 613 1,177
1971  S46  5/2・3  1971総会 不在   渡辺皓司 中島保彦 24 2/18-3/2  宮本和郎 713 1,253
1972  S47  5/13・14  1972総会 不在   25 2/19-3/2  井上長三郎 811 1,404
1973  S48  6/9・10  1973総会 不在   河野 新 渋谷草三郎 26 2/18-3/2 谷内栄次 741 1,208
1974  S49  総会隔年制へ移行   27 2/18-3/2  奥田 紘 715 1,310
1975  S50  6/7・8  1975総会 吉井 忠   奥田 紘 箕田源二郎 28 2/18-3/2  新美 猛 668 1,236
1976  S51         29 2/25-3/7  谷川義美 644 1,259
1977  S52  7/23・24  1977総会 吉井 忠   岡本 博 箕田源二郎 30 2/23-3/9  根岸君夫 658 1,260
1978  S53         31 2/23-3/9  竹田京一 634 1,043
1979  S54  7/7.・8  1979総会 吉井 忠   新美 猛 箕田源二郎 32 2/23-3/9  直江啓示 611 1,188
1980  S55         33 2/23-3/9  田中 保 567 972
1981  S56  5/23・24  27回総会 不在   遠藤駿二 渡辺皓司 34 2/24-3/8  飯島俊一 538 875
1982  S57   (81・82年度)     35 2/25-3/11  酒井 健 635 1,123
1983  S58  6/4・5  28回総会 永井 潔 遠藤駿二 酒井 健 渡辺皓司 36 2/25-3/11  鯨井 洪 554 1,018
1984  S59   (83・84年度) 37 2/25-3/11  児玉房子 517 946
1985  S60  6/8・9  29回総会 永井 潔 酒井 健 兎本雅俊 谷内栄次 38 2/23-3/9  小松崎永夫 530 904
1986  S61     39 2/23-3/9  海老原富夫 488 866
1987  S62  6/13・14 30回総会 永井 潔 渡辺皓司 海老原富夫 谷内栄次 40 2/28-3/12  山下二美子 575 1,046
1988  S63     41 2/28-3/12  高見政良 582 1,039
1989  H1  6/17・18 31回総会 箕田源二郎 兎本雅俊 冨田憲二 中谷 泰 42 2/28-3/12  稲尾健二 571 1,007
1990  H2      43 2/28-3/12  木村勝明 571 1,035
1991  H3  6/16 32回総会 箕田源二郎 首藤教之 木村勝明 澤田俊一 44 2/28-3/12  美濃部民子 577 1,069
1992  H4      45 2/28-3/12  稲井田勇二 592 1,057
1993  H5  7/4 33回総会 箕田源二郎 首藤教之 高見政良 澤田俊一 46 2/28-3/12  十滝歌喜 609 1,071
1994  H6      47 2/28-3/12  石野泰之 591 1,029
1995  H7  7/2 34回総会 谷内栄次 鯨井 洪 稲井田勇二 西良三郎 48 2/28-3/12  蟹江恵三 595 981
1996  H8      49 2/28-3/12  山信田稔 591 980
1997  H9  7/20・21  35回総会 谷内栄次 鯨井 洪 十滝歌喜 西良三郎 50 2/28-3/12  鯨井 洪 646 1,046
1998  H10     51 2/28-3/12  長谷川匠 613 1,044
1999  H11  7/17・18 36回総会 谷内栄次 稲井田勇二 山本良三 小室 寛 52 2/28-3/12  伊藤定夫 613 1,033
2000  H12     53 2/28-3/12  百瀬邦孝 606 999
2001  H13  8/5  37回総会 渡辺皓司 新美 猛 美濃部民子 小室 寛 54 2/28-3/12  鳴海由光 603 1,003
2002  H14     55 2/28-3/12  森田隆一 587 973
2003  H15  7/6  38回総会 渡辺皓司 以後総会で選出 新美 猛 百瀬邦孝 古澤 潤 56 2/28-3/12  西村幸生 601 1,007
2004  H16     57 2/28-3/12  常盤 博 583 957
2005  H17  7/31  39回総会 根岸君夫 十滝歌喜 森田隆一 古澤 潤 58 2/28-3/12  武田昭一 536 892
2006  H18     59 2/28-3/12  小坂元二 602 1,004
2007  H19  7/8  40回総会 根岸君夫 十滝歌喜 常盤 博 西村幸生 60 2/28-3/12  星  功 726 1,200
2008  H20     61 国立3/19-31 山本良三 857 1,564
2009  H21  7/20  41回総会 首藤教之 稲井田勇二 鳴海由光 西村幸生 62 3/18-30  百瀬邦孝 791 1,187
2010  H22     63 3/17-29  高橋威足 827 1,248
2011  H23  7/18  42総会 首藤教之 稲井田勇二 藤平 肇 美濃部民子 64 3/16-28  橋本和明 798 1,195
2012  H24     65 3/22-4/2  宮本能成 823 1,266
2013  H25  7/7  43総会 鯨井 洪 木村勝明 藤平 肇 美濃部民子 66 3/20-4/1  大島美枝子 757 1,147
2014  H26     67 3/19-31  伊藤八枝 753 1,111
2015  H27  7/19  44総会 鯨井 洪 木村勝明 渡辺柾子 佐藤 勤 68 3/18-30  三田久美子 696 1,020
2016  H28     69 3/16-28  手島邦夫 667 992
2017  H29             70 3/22-4/3  藤平 肇    

掲載図版は第50 回展以前に逝くなられた会員の作品です。

編集を終えて

 日本美術会創立70 周年を記念し、「記念パーティ」「日本アンデパンダン展特別展示」と共に「日本美術会・日本アンデパンダン展の作品と歴史」の記念誌を刊行することが決定され、それぞれの担当者案が確認された。(2015 年委員会)
 実際に編纂委員会が動き出したのは、2015 年の秋で3 回の編纂委員会を経て体制、分担、予算など記念誌大要が検討、確認された。その後それぞれの分担に従って進行し、常任委員会での確認を経ながらどうやら形が出来上がってきた。
編纂委員会構成 責任者 稲井田勇二、副責任者 小西勲夫 北野輝、 委員 稲尾健二 十滝歌喜 武田昭一 鳴海由光 宮下泉 百瀬邦孝 菱千代子、協力委員(選考委員)木村勝明 根岸君夫 渡辺皓司 伊藤定夫、協力 代表 鯨井洪、事務局 藤平肇 足立憲子、理論部 上野一郎 荒木國臣、資料部、民美 佐藤勤、財政 西村幸生、編集デザイン 村永泰
 以上の方々の大変な努力によって出来上がったことをまず記し、感謝したい。特に論文、あゆみなどの執筆に当たられた方々、また副責任者の小西さんには会員作品写真のまとめ役、その他随時の相談、年表作成、資料の提出と調整など様々な点で尽力いただいた。資料部が行ってきた会報や美術運動誌の電子化もおおいに役立ったことも付記したい。
 「70 周年記念誌」はごらんいただいたように、「50周年記念誌」を多くの点で踏襲しているが、異なるのは、まず掲載図版である。50 周年以降アンデパンダン展に出品した作家に限定し、物故会員31 名、会員312 名、会員外では長期にアンデパンダン展に出品されてきた方々の中から33 名、(物故会員と会員外の作家は選考委員会で選考させていただいた)計376 名で「50 周年誌」に比べかなり多く、図版の大きさは1 ページに4 点とやや小さくなった。図版の大きさは公平さを重視して、ほぼ同じになる様にした。掲載作品はそれぞれ自分で選んでいただいた。掲載協力費、会員3,000 円、会員外5,000 円 (2 部渡し)でお願いし、ほとんどの方から掲載希望が寄せられたが、返事のない方や辞退の方に再度電話するなどし、当初の予定数より若干少ないが上記の掲載数になった。図版写真は主に60 回展以降のものは会の資料部が撮影したものを使用し、若干の方々からはご本人から写真の提出があった。
 後半部には論文、「日本美術会のあゆみ5,6,7」、「あゆみ別編3 稿」、「年表」を掲載した。
 論文、「あゆみ」とも50 周年以降に限定せず、日本美術会の初期からの活動も含め、日本美術会と日本アンデパンダン展の歴史の集大成とこれからの展望を拓くものをめざした。
 論文では4 人それぞれの特徴を出していただきながら、日本美術会と日本アンデパンダン展の骨格や特質に焦点を当てた記念すべきものになった。会外から武居利史の貴重な論考をいただいた。
 「あゆみ 5,6,7」は25 周年記念誌の後を受けたもので、3 つの時期に区分し、歴史記述を行った。
 日本美術会総会決議、会報、美術運動誌をひも解き、大要やポイントをしっかり押さえ、なるべくわかり易い記述となるよう腐心した。又、50 周年を迎えた「民美」、創立からの国際交流史、「戦争と平和の活動と創作」を「あゆみ」別編として掲載した。年表などの上部に50 周年以前に物故された会員の作品写真を選考し掲載した。
 編纂・編集作業は慣れないことでもあり、多くの時間と会議を費やしたが、各編ごとに記述の仕方が異なり、統一感が無いことや、資料のつぎはぎの箇所も多い。ご容赦願いたい。まだまだ不足や偏重の部分が多いかと思われる。課題提起として今後の検討にゆだねたい。いずれにしても現時点での成果として今後の創作や研究に寄与するものと期待している。
 以下、記録として 国公立美術館130 私立美術館35 美術大学図書館20 友好批評家、団体20 など220 ヶ所へ寄贈。予算は約320 万円で2.000 部印刷。当面の支出の多くは3 年前に亡くなられ、その残された多額の資産の大半を会に寄付された吉沢嘉枝基金から賄います。彼女の希望の一部をかなえたものとして、ここに記し、あらためて感謝の意を捧げます。(稲井田勇二)

創立70 周年記念
日本美術会・日本アンデパンダン展
作品と歴史 1997~2016
発行日◉ 2017 年3月10 日
著作権・発行者◉日本美術会( 代表 鯨井 洪)
        〒113-0034 東京都文京区湯島2-4-4 平和と労働センター全労連会館9F
        TEL 03-5842-5665 FAX 03-5842-5666
デザイン◉村永 泰
印刷◉株式会社きかんし
© 日本美術会 2017
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